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【九森信造】2013年は「っぽい」の年:SPECと食品偽装とさしこと

   ↑  2013/12/25 (水)  カテゴリー: 九森信造
SPEC劇場版、ついに完結しましたね。といっても、ドタバタしていたので、ひと月遅れで映画館に足を運びました。


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さて、SPEC論は別の段に譲るとして、2013年はどんな年だったかと問われたとき、私は「っぽい」の年だったと答えます。

ホテルで高級「っぽい」料理を食べる時間消費

今年、世間を騒がせた事件として、有名ホテルの食品偽装が挙げられます。一度騒動になると「このチャンスに」といわんばかりに、色々な偽装や認識不足が取り上げられました。

ですが、根本的には、この「にせもの」の材料で作られた料理に舌鼓を打って「これが○○ホテルのディナーか」と喜んでいたお客さんが多く存在していたはずです。

そういう意味で、多くの人々は料理の「味」ではなく、ホテルで出されている高級「っぽさ」にお金を払い、満足していたというわけです。

おしゃれかつ豪勢「っぽい」SPEC

豪勢なキャスト、CG、話題性、メディアミックスによる大々的な取り上げ方……。日テレにおける20世紀少年、フジにおける探偵ガリレオ、それがTBSのSPECだったといえるでしょう。

SPECの最大の魅力は、2000年代~東日本大震災以後「っぽさ」が詰め込まれていることです。私たちは映画そのものよりも、その「っぽさ」にほくそ笑み、語ったりするために、映画を見に行っているのでしょう。

指原「っぽい」が浸透したAKB

AKBの恋愛スキャンダルに対する特殊性は、皆さんご存知の通りだと思います。2012年6月の時点で、彼女はファンの男性との不適切な(クリントンを思い出すなぁ)写真を週刊文春に掲載され、HKTへの左遷が決まります。

恋愛スキャンダルで活動休止に追い込まれたメンバーもいたことから、指原さんの処遇にはいろいろと意見が上がりました。

しかし、その1年後、彼女はAKBの頂点に立っていたのです。

前田敦子や大島優子、篠田麻里子、板野友美のような1期生は「AKBとは何か」を体現していたと思います。しかし、指原さんは何かを体現しているのでしょうか。

辛辣な表現かもしれませんが「何でもやる!」という姿勢は逆に、少しカワイイ芸人といったカテゴリーに陥っていたような気がします。

結局、私たちは指原さんに「本格」を求めることはないのです。前田敦子がAKB卒業後、映画女優として開花しているように、AKBをやめなければ上れない階段もあるでしょう。

「っぽい」と「本格」のあいだ

2013年は「っぽい」で満足していた人々が「っぽい」と「本格」のあいだで揺れ動いていた年と言えるかもしれません。来年はどの道を選ぶのか。それはみなさんの選択です。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-49.html

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【九森信造】「っぽい」が「本格」になる方法:ライムスター論

   ↑  2014/01/01 (水)  カテゴリー: 九森信造
皆さん、日本語でラップしたことありますか?

今回は、前回の「2013年は『っぽい』の年」を踏まえた上で、日本語ラップのパイオニア「ライムスター(宇多丸・MUMMY-D・DJ JIN)」のリリックを見ていくことにしましょう。

オレにゃ意地がある目指すオリジナル

日本語ラップに対する批判として「日本には黒人差別のような環境がないからラップは根付かない」というものがあります。確かに、ラップを語るうえでは、その担い手であった黒人もといアフリカ系アメリカ人の存在は欠かせないでしょう。

しかし、MUMMY-Dはこう歌います。

「次の生け贄はミスター食わず嫌い
端から耳貸す気ないくせに何かとケチつけるお前とケリツケル
いわく『日本にゃHIPHOPは根付かねぇ!
日本人がラップするとはいけすかねぇ!
何の意味がある?この尻軽。所詮無理がある!』
と無意味がるが
オレにゃ意地がある目指すオリジナル
シェリルみたいにI got to be real」

「ウワサの真相feat.FOH」『ウワサの真相』


私も90年代後半から日本語ラップを好んで聞いていますが、黎明期はダジャレと言われても仕方ないような韻の踏み方やお経のようなフロウもあったかと思います。

それでも彼らは、ラップの魅力に夢中になり、ラップに人生を賭けてきたからこそ、そこに「意地」を張っているのです。


ウワサの真相


神は天にしろしめし世はすべてこともなし

そうして、彼らが切り拓いた日本語ラップの市場が成長すると、ブラウン管(今なら液晶か)に取り上げられるラッパーとそうでないラッパーが分かれることになりました。

ここ最近までは、ライムスターも「そうでないラッパー」だったといえるでしょう。DJ JINはこう歌います。

「半ば本格派 半ば道楽か
勝手次第な好事家なくばかつて生まれた娯楽は無駄
だがその興味の源泉は局地局地に伝染し
無償は承知の原点に立ち返り独自に喧伝す
誰がために誰がためもなくただはかなく身を焦がす」

「ザ・グレート・アマチュアリズム」『グレイゾーン』


なまじキャリアを積んで「本格派」というマイナーに甘んじようとも、彼らは自分のラップを貫いてきたのです。さらに、MUMMY-Dはこう歌います。

「イカすブラウン管なかのナンパラッパーが
吹き出しちゃうほど直球で
左様、世の中そんなに甘くはない
が言わしてもらう決してためらわない
オレにとっちゃこいつは金じゃない
Checkしなこの至高のアマチュアナイト」

「ザ・グレート・アマチュアリズム」『グレイゾーン』



グレイゾーン


このアマチュアリズムは、数年の活動停止(2007年~2009年)から復帰したライムスターにも受け継がれていました。

「声が無いならリズムで勝負
リズムが無いならイズムで勝負
早口・オフビートすべて試した
決してならなかった誰かの手下」

「K.U.F.U.」『マニフェスト』



マニフェスト


誰もいわねぇからぶっちゃける

その一方で、宇多丸師匠は、社会に対して言いたい放題の姿勢を貫きます。

「オレだってキレそう
ほんとイヤな世相
なんでああ無節操
ワイドショーは消そう
やたらと血相変え吊し上げ
そう『地獄への道は善意で舗装』」

「H.E.E.L.」『マニフェスト』


このように、宇多丸師匠のリリックには「そういう言い方があるんだな」と膝を打つことがよくあります。

「あの半島の方に核弾頭
足元にたくさんの活断層
まるで崖の上に建つダンスフロア
で俺たち踊らすバブル残党」

「逃走のファンク」『Heat Island』


この作品の発売が2006年、すなわち東日本大震災はおろかリーマンショックも起きていない時期だというのは、驚くべきことだといえるでしょう。


HEAT ISLAND


決して譲れないぜこの美学

活動休止前の2007年、武道館ライブでMUMM-Dはこう語っています。

「原点回帰って言葉があるけど俺らにね原点回帰はない!
何でかって言うと未だに原点にいるから
原点回帰のアルバムですなんてそんなものは出しませんよ
そんなこと言うんだったら毎回原点から動いてない
毎回原点回帰のアルバムを俺ら作ってきてる訳
俺はそれをすげえ誇りに思うんだよね」



原点回帰とは「自己対話」のことだと思います。社会を批評するにしろ、何かをメッセージするにしろ、自己対話ができていなければ、作品はつまらないものになるでしょう。

逆に、自己対話がしっかりできていれば、普遍的な作品を生み出すことができるのではないでしょうか。

「決して譲れないぜこの美学ナニモノにも媚びず己を磨く
素晴らしきろくでなしたちだけに届く轟くベースの果てに」

「B-BOYイズム」『マニフェスト』


そうです、己を磨き続けるしかないのです。最初は、黒人文化の真似をした「ラップっぽいもの」でした。しかし、長い時間をかけて磨き続けるなかで「本格的な日本語ラップ」を生み出してきたのです。

同じように、「っぽいもの」を磨き続ければ「本格的なもの」になります。そして、それには時間がかかるのです。日本語ラップも20年かかりました。

2013年は『っぽい』の年」だとすると、2014年は「本格的なもの」を生み出すためのスタートとなるでしょう。

「言ったなボウズ許しはしないぜ三日坊主!君の!」

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-51.html

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【九森信造】前田敦子の大きなけじめ、大島優子の小さな復讐

   ↑  2014/01/08 (水)  カテゴリー: 九森信造
2013年の紅白歌合戦では、大島優子がAKBからの卒業を発表しました。

この2年間で、AKBを創設当初から支えてきたメンバーの大部分が卒業し、今回の卒業発表も世代交代を象徴する出来事となりました。

この記事では、前田敦子と大島優子の卒業を比較することで、2012年3月から2013年12月までのAKBを論じてみたいと思います。

結論から言えば、前田敦子の卒業は「大きなけじめ」であり、大島優子の卒業は「小さな復讐」だったのではないでしょうか。


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女神たちの集大成と人身御供:前田敦子の場合

東日本大震災が起こった2011年、誤解を恐れずに言えば、彼女たちは女神のような働きをしていたと思います。詳しくは『Documentary of AKB 2』に描かれていますが、テレビ番組を賑わせただけではなく、被災地でのイベントを毎月開催していました。

しかし、女神たちは壁にぶつかります。恋愛禁止ルールを逆手に取られたスキャンダル、総選挙によるプロモーションへの批判。その女神の顔であり、常に批判の中心に据えられたのが、前田敦子だったといえるでしょう。

『Documentary of AKB 2』で、彼女は印象的なことを語っています。

「私たちっていったい、何と戦ってるんでしょうね」


その一方で、世間はAKB無しでは成り立たない状況になりました。朝から晩まで彼女たちを見ない日はなく、雑誌からインターネットに至るまで、彼女たちのいないコンテンツを探す方が難しくなりました。

AKBと無頼派メガネのナツイチタイアップ、秋元才加編でも書きましたが、AKBの歴史の大部分は、オワコンになったアイドルを世間に知らしめる戦いでした。その世間が、彼女たちを批判しつつ、中心に据えるようになったのです。

そんなAKBの最後の目標は、東京ドームでの単独公演でした。その夢の実現を直前に控えた2012年3月25日、前田敦子は卒業を発表します。ある意味では、AKBの夢を達成するための「大きなけじめ」、少々大げさな言い方をすれば「人身御供」だったのかもしれません。

夢を叶えた後の壁:AKBのアイデンティティ

東京ドーム公演を終えた翌日、前田敦子は卒業しました。その後、AKBにとって壁になったのは、大きくなりすぎた彼女たち自身でした。

恋愛禁止ルールは戒律のように扱われ、博多への「左遷」、活動辞退、はたまた坊主にしての謝罪など、ワイドショーを連日賑わせ、AKBファンではない層にまで物議を醸すムーブメントとなりました。

一方で、世間が求める矛盾も明らかになります。恋愛スキャンダルで取沙汰され、AKBの世界観を良くも悪くも崩壊させた指原莉乃が、総選挙で1位になったのです。このことをどう捉えるべきでしょうか。

私は、世間という大きな装置の前にAKBがAKBではなくなってしまったのだと考えています。

それでは、AKBとは何でしょうか。大島優子の発言から考えてみましょう。これは、古参のファンに向けられた言葉だと思います。

「私は、秀でた才能も無いですけれども、ただただ、何事も全力で笑顔でやってきたことが、実になって、その実にみなさんが水をかけてくれて、太陽のような光をあびさせてくれて、咲くことができています。いつまでも太陽のような存在でいてください。」


2009年に発刊されたQuick Japan vol.87で、戸賀崎支配人が以下のように語っています。

「僕の仕事のひとつは、ファンの声を集めるってことですね。(中略)

MVP制度を秋元さんがやろうって言って、僕が舞台に出て行って言ったんですよ。そうしたらその後、お客さんから『応援の方法には人それぞれのやり方があるでしょう?』って猛クレーム(中略)

次の日、『変更しよう』って(秋元さん)に言われて、『ですよねぇ』ってなって。またお客さんの前で、昨日発表しましたけど、やっぱり止めます。」


同じ雑誌で、秋元康はこのように語っています。

「まだお客さんががらがらの頃は、僕が劇場のロビーにいて、お客さんに『どう?』とかって聞いていましたから(中略)

今も同じですよ。劇場で生の声を聞く機会が減ったというだけで、ファンと見えない所で会話をしているんです。」


みんなで作り上げていくAKB。古参のファンは、ファンでありながら運営側に参加できたのです。そこで初めて、プロモーションや販促を超えた、握手会や総選挙の意義が生じていました。

しかし、この構造は諸刃の剣でした。AKBの受け皿が大きくなるほど、古参のファンの手を離れ、世間という大きな装置を反映して、そのルールや価値が決められるようになってしまいました。つまり、AKBがAKBではなくなってしまったのです。

紅白に降り立った復讐の女神:大島優子の場合

大島優子はAKBを当初から支えてきた2期生でありながら、女優としてもマルチな才能を発揮しています。AKBであることと一個人であることに葛藤を抱えていたのではないでしょうか。

古参のファンのおかげで今のAKBがあるのに、今のAKBは古参のファンばかりに向いてはいられない。そして、自分もいつまでもAKBにいることはできない。

そんな彼女の葛藤をぶつけるために、AKBならではの「サプライズ」を紅白に仕掛けたのではないでしょうか。

秋葉原のドン・キホーテの屋上で、当時オワコンだった「アイドル」に一番大事な時間を注いできた彼女たちの物語は、ファンや運営サイドによる「サプライズ」に喜び、時に涙し、時に憤ることで紡がれてきました。

しかし、彼女たちとファンが作り上げてきた物語は、今や世間という大きな装置を反映し、彼女たちは世間を体現する存在になってしまいました。

そんな時、1人の復讐の女神が、世間の注目を集める場所、すなわち紅白歌合戦に「サプライズ」を仕掛け、AKBを体現して見せたのです。それは、世間に対する「小さな復讐」だったのではないでしょうか。

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【九森信造】変化することを許されたガールズユニット:東京女子流

   ↑  2014/04/20 (日)  カテゴリー: 九森信造

アイドルの価値は「ここにいたこと」を体現することである。その時代、その場所でしか発揮できなかった輝きを最大限に表現する。ある意味では、最上級の刹那的な魅力を提供する人やグループがアイドルの定義である。(九森)


今回は、アイドル論となります。BON-BON-BLANCOの記事を読んでいただければ、わかりやすくなるかと思います。

私は、BON-BON-BLANCOの「バカンスの恋」(2003年)以降、アイドルの現場から少し離れました。それは、アイドルがあまりに因果な商売だと感じたからです。

冒頭に掲げた定義を裏返すと、アイドルというのは、10代の女の子が一瞬の輝きと引き換えに大きな代償を払う商売です。特にモーニング娘。の初期メンバーのその後を見て私が感じたことでした。

私をアイドルの現場へ戻したガールズユニット、東京女子流

しかし、忘れもしない2010年10月、ある曲を聴いて私は改めて現場への復帰を決めました。


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2010年は「ヘビーローテーション」でAKBの本格的ブレイクが始まった年でした。私はまたもや世間がアイドルを安易に受け入れつつあることを懸念しながらも、いわゆる「アイドル戦国時代」の調査を始めました。

動画サイトを巡回しているとアイドルという名前だけで多くの関連動画が出てきます。どれもみんな昔聞いたようなフレーズとメロディーでした。

そこで、気になるアーティスト名とタイトルが出てきました。

「東京女子流/ヒマワリと星屑」

東京で生きることを選ばなかった私。星屑という名前にも自分と浅からぬ因縁を感じ、URLをクリックしました。イントロでかかったカッティングの効いたギター音、それだけでもう自分のライフタイムベストになったといえます。

実際に曲を聞いてもらわないとこの衝撃はわからないと思いますが、私にとってはBON-BON-BLANCOの「バカンスの恋」以来の衝撃でした。

また、野宮真貴とともにPIZZICATO FIVEを結成していた小西康陽も、同曲を「Jacson Sistersの『I Believe in Miracles』を超えた」と評しています。

「I Believe in Miracles」は、フレーズを聞けば知らない人はいないであろう名曲です。

ただ、私にとって一つの懸念がありました。東京女子流の所属事務所がA社ということです。A社はこれまで時代をリードしたプロデューサーやアーティストを多く輩出してきた一方で、目の前の売上重視でアーティストをすり減らすような企画も多く見られました。

あるアーティストに12週連続でシングルを発売させる動きなど、投資分を急遽回収することだけを狙った企画かと勘ぐったこともあります。

私は、現時点での「アイドル」でありながら、そこから脱皮していく可能性のあるガールズユニットの行く末を案じました。

お気づきかもしれませんが、私は東京女子流に対しては「アイドル」とはいわず、ガールズユニットと呼ぶようにしています。確かに、便宜的に「アイドル」と呼ぶことはありますが、あくまで便宜的にです。

東京女子流のコンセプトは「音楽の楽しさを歌って踊って伝えたい!」

彼女たちのオフィシャルサイトに以下のような文章があります。

常に驚きと刺激がいっぱいの『東京』。
次に何が起きるのか分からない『東京』。
そんな『東京』のような、成長と驚きを絶えさせないグループになりたい、
日本からアジア全域、そして世界に向け発信したいという目標から、
『TOKYO』という名前を冠にしたグループ名で、
彼女たちだけのスタイルを追求する。


冒頭に掲げたアイドルの定義を思い返していただきたいと思います。アイドルが「ここにいたこと」を体現する存在だとすれば、アイドルは刹那的にしか生きることができません。

私は「バカンスの恋」の素晴らしさを以下のように述べました。

あの「バカンスの恋」は、アンナ自身があの頃にしか歌えなかった歌を等身大で歌いきっており、文字どおり「ここにいたこと」を記録に残しているわけです。(九森)


BON-BON-BLANCOは二度と2003年の夏の輝きを取り戻すことはありませんでした。あの当時の彼女たちにとって、変わってしまうことは最高潮から落ちていくことであり、私は今も2003年の夏でパッケージングされた彼女たちを思い続けています。

東京女子流が「アイドル」だとすれば、今のような展開はしないでしょう。同世代のアイドルグループであるももいろクローバーZに対して、東京女子流はあえてその逆をいっているように思います。

小見出しにも挙げた「音楽の楽しさを歌って踊って伝えたい!」というコンセプト、そして「変化」を前提にしたユニット名があらわしている様に、彼女たちは成長や進歩、変化することを許されたユニットなのです。

変化しなければいけないからこそ、未来と今が見えてくる

これは私見ですが、運営側は、コンセプトに則っていない売れ方を否定しているように見えます。彼女たちをパッケージングして保存したいというファンは切り捨てているのではないでしょうか。

特に、彼女たちのすべての楽曲には松井寛という編曲者が関わっており、独特の世界観と高い評価を得ています。そう、彼女たちのキャリアには少し大人なかっこいい音楽が寄り添っているのです。

もちろん、アイドル的な「ここにいたこと」の輝きも彼女たちは持ち合わせていますが、本質的にはその大人な楽曲や世界観に背伸びしている彼女たちの成長(変化)こそが魅力なのです。

だから、彼女たちの目線の先にはいつでも未来、理想があります。そして、未来や理想があるからこそ、突飛なことはできない。一か八かの大きなリスクを抱えた勝負は未来に対する無責任感によるものです。

大きなリスクを抱えないからこそ、劇的な変化は起こせないかもしれない。一世風靡もできないでしょう。しかし、それゆえに身に纏うことができるものがあります。他のアイドルになくて東京女子流にあるもの。それは「品」です。

品のあるガールズユニット、それはアイドルというよりも宝塚やバレエダンサーに近い存在なのかもしれません。

東京女子流のこれからに期待してください。

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2014/04/20 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】嫌われる勇気:嫌われることで自由になれる

   ↑  2014/05/25 (日)  カテゴリー: 九森信造
ネットには教養を、リアルには感動を。
このテーマをもとに「無頼派メガネ」を展開しています。

さて、皆さんは本や誰かの言葉に感動して目から鱗、もしくは耳から鱗が落ちた経験はないでしょうか?

私、九森は久しぶりに目から鱗が落ちる本に出会いました。今回は、まとまりがないうえに長い書評となりますが、お付き合いいただければ幸いです。

『嫌われる勇気』

フロイトやユングに並ぶ心理学の権威とされながら、日本では無名に近いアルフレッド・アドラー。彼はトラウマの存在を否定したうえで「すべての悩みは対人関係によるものだ」と断言します。本書はアドラー心理学をベースにした創作対話編です。


嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え


フロイトの限界

科学的に考えれば、過去の「原因」が、現在の「結果」をもたらすことになります。フロイトは、感情という「原因」によって、行動という「結果」がもたらされると考えました。

これは、いわゆるトラウマの考え方です。たとえば、いじめられた経験による「不安な気持ち」から「引きこもり」になるといった具合です。

しかし、この考え方を採用すると、人間が感情に支配される生き物だということになります。この点を指摘したのがアドラーです。

感情は手段である

アドラーは、感情と行動の間に「手段」と「目的」の関係を設定します。彼は、感情という「手段」によって、行動という「目的」が達成されると考えました。

たとえば、先ほどの「不安な気持ち」は「引きこもり」になるための手段だといいます。そして、トラウマなど存在しないとまで言ってのけるのです。

アドラーの目的論の根本には、人間は感情に支配されるのではなく、感情を道具としてコントロールできる生き物だという大前提があります。

この目的論を受け入れるには、感情を言い訳にしない勇気が必要になりそうです。

万人に好かれなくてもよい

さらに、本書では「すべての悩みは対人関係によるものだ」といいます。とりわけ「誰かに認められたい」という承認欲求に対しては手厳しく言及しています。

なぜなら、承認欲求には自分の価値観が存在せず、他人の価値観に合わせて生きることが至上命題となるからです。

本書では、相手に居場所を与えてもらう承認欲求ではなく、自分で居場所を作る「共同体感覚」と「貢献感」が重要だとしています。

それを身に着け、実践するためには「万人に好かれなくてもよい」という諦めが必要なのでしょう。

スキルがあればよい

「万人に好かれなくてもよい」と覚悟を決めることは、言い換えれば「特定の人から嫌われてもよい」と割り切ることです。

本書では、そんな「嫌われる勇気」を手に入れることで、自由になれるとしています。しかし、世の中はそんなに甘くはないでしょう。

「嫌われる勇気」と同時に必要なのは、生きていくためのスキルです。

霞を食べて生きる仙人でない限り、人間は日銭を稼いで口を糊していかなければなりません。日銭を稼ぐには生業が必要です。その生業を保障するのがスキルなのです。

そうして「嫌われる勇気」を手に入れた個人の共同体こそが、真の自由を勝ち取るのではないでしょうか。

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【九森信造】マイケル・ジョーダンが神になった日:悪童たちの美学

   ↑  2014/06/15 (日)  カテゴリー: 九森信造
近年の流行りか、人を褒める際に「○○神」や「神○○」といったように、神という言葉を連発する表現をよく目にします。

八百万の「カミ」という世界観をもつ日本ならではの表現かもしれません。

ところで、特定の分野では「神」と評価されていても、他の業界や一般的な知名度は低いことがしばしば見受けられます。

しかし、万人から「神」と呼ばれる条件をクリアし、アメリカのスポーツに過ぎなかったバスケットボールの人気を世界レベルにまで引き上げ、サブカルチャーに影響を与えた人物がいました。マイケル・ジョーダンです。


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ジョーダンの神っぷり

ジョーダンが神と呼ばれる所以を簡単にお伝えしましょう。

・NBA3連覇を2度達成している
・1度目の3連覇のあと、引退してメジャーリーグに挑戦
・メジャーをあきらめて、NBAに復帰し、2度目の3連覇
・ちなみに、これまで3連覇を達成したのは3チームだけ

もちろん、バスケットボールは1人でするものではありませんが、ジョーダンがいなければ、シカゴ・ブルズの躍進もなかったでしょう。

しかし、ジョーダンはNBAデビュー当時から神だったわけではありません。

神話においては、試練を乗り越え、ようやく「神」と名乗る資格を得ることができます。ジョーダンもさまざまな試練を乗り越えてきました。

そして、彼が神になった日、それは同時に苦難を与え続けてきた悪童たち、バッドボーイズの終わりの日でもありました。

1991年5月27日

イースタンカンファレンス・ファイナルの第4戦。デトロイト・ピストンズはそれまで2連覇を達成しており、史上2チーム目の3連覇をかけた大事なシリーズでした。

対戦相手は、マイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズ。

当時のデトロイト・ピストンズは「バッドボーイズ」と呼ばれ、そのプレイスタイルは必要以上に乱暴で、場合によっては汚い手段も使っていました。ある意味では、リーグを代表するヒール(悪役)だったのです。

「バッドボーイズ」は、頭角を現し始めたジョーダンに対して、特別なディフェンスを仕掛けます。

ゴール前に切り込んできたジョーダンに対して、2人、3人、場合によっては4人がかりになって、しかもファールもためらわずに止める戦法を作り上げました。名づけて「ジョーダン・ルール」です。


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「ジョーダン・ルール」の皮肉

「バッドボーイズ」には、ブルズを抑えるにはジョーダンを抑えればよいという考えがありました。しかし、この考えには落とし穴が2つあります。

1つ目は、シカゴ・ブルズのチームレベルの上昇を考えていなかったこと。実際、フィルジャクソンをコーチに迎え、トライアングル・オフェンスを導入して以降、メキメキとレベルを上げていきました。

2つ目は「バッドボーイズ」自体がいずれは衰えていくということ。残酷にも、人間は年を取り、何らかの衰えが発生します。

「バッドボーイズ」の全盛期が80年代中頃から後半なのに対して、ジョーダンがデビューしたのは1984年。いずれは取って代わられる運命だったのです。

そしてそのときが、1991年5月27日でした。

自ら幕を閉じた悪童たち

再び、イースタンカンファレンス・ファイナルの第4戦。デトロイト・ピストンズは、ジョーダン率いるシカゴ・ブルズと対戦しました。

しかし、これまでの「ジョーダン・ルール」では全く歯が立たない。

4戦先勝した方が先に進めるシリーズにおいて、デトロイト・ピストンズは3連敗。今日負ければ、屈辱のスウィープ(1勝もできずにシリーズを終えること)でした。

第4戦も残り10秒を切ったところ、デトロイト・ピストンズはタイムアウトを取ります。20点近い点差をつけられ、もはや試合は決まったも同然でした。

すると「バッドボーイズ」はジャージを着用し、そのまま控え室へ戻ってしまいます。試合は続行不可能となり、結果はシカゴ・ブルズの勝利となりました。

スポーツマンシップを尊重すれば、彼らの行為は許されないものかもしれません。しかし、私の見方は少し違います。

悪童たちが貫いた美学

組織や業界の中では、時代が進むにつれて世代交代がつきものです。忘れてはいけないのは、時代には必ず終わりが来るということです。

新世代に対して「壁」として立ちはだかりながらも、その役割を終えたときには自ら幕を閉じる。1つの「美学」としては十分に成り立ちうるし、理解できるものだと私は考えています。

当時のデトロイト・ピストンズのファンたちは、タイムアウト中に控え室へ戻っていく選手たちにハイタッチを求め、送り出していきました。

ある意味では、ジョーダンという「神」に最大の試練を与え続けた「バッドボーイズ」へのお疲れ様の意味合いがあったのでしょう。

英雄やヒーローの影にはいつでも悲劇があります。悪童たちは美学を貫きながら、その大仕事をやり遂げた稀有な存在だったのではないでしょうか。

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【九森信造】あなたは「上手に思い出すこと」ができますか?

   ↑  2014/10/01 (水)  カテゴリー: 九森信造
少し前に亡くなった、作家の井上ひさしの言葉に「つるつる言葉」というものがありました。詳細は忘れましたが、凹凸のある物体の表面が、使い古されて摩耗し「つるつる」になってしまうように、人々が口々に使うことによって、実感がともなわなくなってしまった言葉のことを指します。

たしか東日本大震災の際に「つながり」や「きずな」という言葉が連呼される風潮を揶揄するために朝日新聞が使っていたのを覚えています。

「つるつる」化してしまう理由

「つるつる言葉」という言い方はしていませんが、小林秀雄は『学生との対話』の中で興味深い言葉を残しています。

「信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人のごとく知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない、そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。」


私なりに解釈すれば、例えば「つながり」という言葉を使うときに、自分の周囲や実体験に置き換えて話ができ、なおかつ一定の批判に耐えうる説明が可能か否か。つまり、自分の信じるレベルまで昇華できているかという問題です。

小林秀雄はこうも語ります。

「自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅を利かせるのです。」


自分流に信じていないから、ある意味では上っ面のイデオロギーで人々はカテゴライズされてしまうわけです。では、頑なに人々との交流を拒んでいればいいのかといえば、そうではありません。

「自分に都合のいいことだけを考えるのがインテリというものなのです。インテリには反省がないのです。反省がないということは、信ずる心、信ずる能力を失ったということなのです。」


独りよがりでいいはずはないのです。常に、周囲の意見に耳を傾け、自問自答を繰り返し、変えるべきこと、変えざるべきことの色分けをしていくことこそ、重要なのです。

知識と経験の二重奏

ここで、議論を進めるために、「知ること」によって深められるものは「知識」、「信ずること」で深まっていくものは「経験」と置き換えてみます。

皆さん、小学校でリットルやセンチメートルなどの単位を勉強したことを覚えているでしょうか。私は単位の勉強をした際、スーパーで見かけた牛乳パックに「1000ml」という表示を見て父親に「これって1リットルのこと?」と質問したことを覚えています。

しかし、以前、小学生に単位の勉強を教えているとき、牛乳パックに表記されている「1000ml」が何リットルかと尋ねると、小学生は答えに困っていました。コンビニやスーパーでほぼ毎日のように目にしておきながら、牛乳パックの1000mlが座学で学んだ単位の勉強と結びついていないのです。

座学で学んだことを「知識」とすれば、スーパーやコンビニで牛乳パックを見かけたことは「経験」となるでしょう。

読書をするときも、単語の「国語辞書的」な「知識」がなければ文意を掴むことができない一方で、作中で筆者の思い描いている光景や登場人物の心境などを想像するとき、今までの人生で得てきた「経験」をベースにしないとうまくいきません。

コミュニケーションの基盤になるべき共通の「経験」

近年では、世代を超えた交流が少なくなっていることが問題視されています。1つの問題としては、特に戦後における科学技術の急速な発展により、上の世代と下の世代の感じてきたことが全く違うがゆえに、共通の話題などが持てず、交流が減っているという考えです。また、若い世代のコミュニケーション能力不足に責任を転嫁されることもよくあります。

私は、コミュニケーションの基礎となるべき、世代間の共通の「経験」が圧倒的に不足しているのだと思います。では、共通の「経験」とは何かと問われれば、私の答えは伝統に則った行事、たとえば、町内会・地域行事の運営への参加だと思っています。

慣習になってしまった行事は消えていく

小林秀雄は伝統と慣習(習慣)の違いを次のように述べています。

「傳統と習慣とはよく似てをります。併し、この二つは異るのである。僕等が自覺せず、無意識なところで、習慣の力は最大なのでありますが、傳統は、努力と自覺とに待たねば決して復活するものではないのであります。」


近年では、町内会や地域コミュニティの弱体化が問題視されています。地域行事の参加者も運営者も高齢化し、動員力が落ちていると言われています。表面的には、娯楽が多様化し、旧来の行事に魅力が感じられなくなったのかもしれません。

しかし、小林の議論を援用すれば、違う視点が必要なのではないでしょうか。つまり、私たちがこれまでの伝統を「形骸化」させて、「習慣」にしてしまわないために、努力と自覚を持って引き継いでいかなければいかないのではないでしょうか。

このことを、行事や何らかの事業に関わる人々は意識しなければいけないと思います。では、具体的にどうすればよいのか。最後に小林秀雄の珠玉の言葉を引いて終わりましょう。

「歴史とは上手に思い出すことである。」


悠久の時間を越えて続く行事の運営に参加することこそ、「上手に思い出すこと」の一助になるのかもしれません。

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2014/10/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】枚方花火大会復活の機運によせて【枚方三部作】

   ↑  2014/12/01 (月)  カテゴリー: 九森信造
2015年、大阪府は枚方市の淀川河川敷において、2003年以来となる花火大会復活の機運が高まっています。


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先に断っておきますが、私自身は、まったく利害関係の外にあり、一市民としての関わり以上のことはありません。しかし、同じ枚方に縁があり、7年ほど前に青年会議所の方と花火大会に関して、議論をたたかわせたこともあります。

今回は、2015年の花火復活の動きに合わせて、私の知る限りの情報をもとに、枚方で復活する花火大会の意義を申し述べたいと思います。

花火大会中止のきっかけは何か?

花火大会中止のきっかけは主に2つあげられます。それは、予算と安全でした。

枚方市長が2012年8月号の広報誌に寄せている文章によれば、中止した直接的な原因は2001年におきた明石花火大会歩道橋事故だったそうです。

2001年の事故を受け、警備体制を強化するもトラブルが続出し、これ以上の予算をかけて警備を増員しても、安全が確保できないであろうという判断があったようです。あくまで推測ですが、警察側からの警備計画強化の要請もあったのでしょう。

そういった事情を背景にして、2003年に枚方の花火大会は一旦ピリオドを打つことになりました。

もう1度復活させる意義は何か?

一般論ではありますが、1度途絶えていたものを復活させるには非常にエネルギーが必要です。さらにいえば、周囲の“雑音”を納得させるだけの志や意義を語ることのできる人物も必要でしょう。

その上で、ただ単に「イベント」として復活するのではなく、「なぜ、淀川か?」「なぜ、枚方か?」という、見過ごされがちですが物事の根本に迫る自問自答を繰り返さなければならないでしょう。

そして、枚方花火大会の議論をする際に、外してはいけないことがあります。それは、日本における淀川の特異性です。

淀川に隠されたおどろおどろしい歴史

淀川は日本一の大きさを誇る琵琶湖から流れ出す唯一の河川です。滋賀から、京都、大阪へとさまざまな支流を持ち、大阪湾へと流れ込んでいきます。

日本の河川では下流域に大都市が広がることが常でしたが、淀川の場合は、少し特殊で、京都と大阪という昔からの大都市を流れています。

人口も多かったため、急な大雨や台風などで、不運にも流されていく人も多かったのでしょう。特に京都で巻き込まれた水死体は、枚方、そして川を挟んだ向かいの高槻の河川敷に流れつくことも多かったようです。

それを証明するかのように、郷土史家の宇津木秀甫先生が高槻に残る民話をまとめた『高槻物語』には「土左衛門」という話が伝えられています。

本来は、文章を楽しんでいただき、おどろおどろしさを感じてほしいのですが、今回は簡単にまとめておきます。

・江戸の頃、水死体が淀川の沿岸部に流れ着くことがよくあった。
・たいていの場合、身元がわからず、水死体を見つけた人は、そっと下流に流していた。
・一方で、とんでもない商売を思いつく商人もいた。
・その商売は、水死体を引き上げ、手押し車に乗せ、あたかも病人を運ぶふりをする。
・そして、武家屋敷の前で、「試し切りはいらんかね」と売り文句をいうと、武家屋敷の扉が開く。
・その後、水死体は武士の試し切りに使われ、持ってきた商売人たちは武士から礼金をもらう。
・試し切りに使われた水死体は商人たちによって、淀川に捨てられ、下流へと流されていく。


名も無き水死体を下流へ流すだけでなく、商売に使っていた人間がいたというのです。

煌びやかな花火にこめられた思い

日本全国に花火大会があります。有名な花火大会でも、その裏に歴史の非情さの中で残念ながらも亡くなった方々を慰霊する意味合いを持ったものが数多く存在します。

隅田川花火大会は1732年、徳川吉宗が将軍だったころに起こった飢饉で亡くなった人々の慰霊のために始まり、幾度かの中断を経て今日に至ります。

1945年8月1日、あの戦争で起きた長岡空襲で新潟県長岡市は大打撃を受けました。戦争が終わって3年後の1948年、もう一度、街が立ち上げるきっかけとして始められたのが、長岡花火大会でした。

今でも、空襲のあった8月1日の午後10時半には「白菊」という花火が慰霊のために打ち上げられています。

有名どころだけでも、煌びやかな花火は過去の非情な歴史と結びつき、慰霊という意味合いがこめられています。花火大会の運営のモチベーションの奥底には大会の古今東西にかわらず、そのような思いがあるのでしょう。言わずもがな、淀川の花火大会も同じです。

あの世に光を届ける「送り手」として

先日、小林秀雄に関するエントリーのなかで「歴史とは上手に思い出すことである」という言葉を引用しました。

花火大会の記憶は人それぞれでしょう。在りし日の父親に手を連れられた記憶、学生のころ友人たちとはしゃいだ記憶、恋人と初めて2人で見た記憶、子どもを連れて家族で見た記憶。

そういった「受け手」としての花火大会の記憶が重要なのはもちろんです。

一方で、2015年に花火大会が復活した際は、「送り手」から、淀川の歴史と鎮魂のメッセージを発信することも大事ではないでしょうか。「送り手」とは、花火大会の運営側に参加することだけを意味しません。花火を見ながら、亡くなった家族や友人、さらには災害や戦争で亡くなった方のことを思うことで「送り手」となるのです。

その煌びやかさに心奪われて、「この世」を謳歌するだけではなく、その日だけでも亡き人々に思いをはせる「送り手」が増えれば、花火大会の「志」である慰霊や鎮魂の意味合いはより強いものになるでしょう。

夏の夜空にかがやく花火は「この世」から「あの世」を照らすものにしたいものです。

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2014/12/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】枚方にTSUTAYAが帰ってくる!【枚方三部作】

   ↑  2015/01/01 (木)  カテゴリー: 九森信造
「楽しいことに用がある」

私が初めて心を動かされたキャッチコピーはこれでした。何より、私のふるさとである枚方発祥の企業がこのコピーを用いていたことが嬉しかったことを覚えています。


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1983年に枚方で産声を上げた蔦谷書店は30年の時を超え、TSUTAYAとなり、全国にチェーンを持つ企業となりました。

東京は代官山の旗艦店が話題を集め、佐賀県は武雄市の図書館がマスコミの注目を浴び、枚方とTSUTAYAの縁は「創業の地」以外何も残っていないように、少なくとも一市民としては感じていました。

そんな枚方にTSUTAYAが帰ってきます。その意義を、CCC(TSUTAYAの運営会社)社長、増田宗昭氏の『知的資本論』をもとに探ってみようと思います。

「サードステージ」を勝ち抜くために

増田氏は今の消費社会を「サードステージ」と名づけています。

「ファーストステージ」はモノが不足していて、モノを作れば売れる時代。日本で言えば、戦後まもなくのイメージでしょうか。

そうして、ある程度モノが満たされると次は、モノを集めた場所、プラットフォームが重要になってくる。それが「セカンドステージ」だそうです。プラットフォームは百貨店やディスカウントショップ、ネットでは楽天市場やアマゾンなどのイメージでしょう。

「サードステージ」はプラットフォーム自体に価値があるのではなく、顧客にとって何らかの「価値」を提案することが重要だそうです。その「提案」こそが「デザイン」だと増田氏は述べています。

「暇つぶし」を売る時代

増田氏は本書の中で、「セカンドステージ」までの利便性を追い求めた消費だけでは幸福になりづらいと述べています。言うまでもなく、増田氏は「サードステージ」には人々を幸福にする力があると思っているのでしょう。

しかし、私は、もう少し違った考え方をしています。乱暴ではありますが、あえてわかりやすく、「セカンドステージ」までを「20世紀型」、「サードステージ」を「21世紀型」と名づけて対比してみましょう。

「20世紀型」はモノやサービスが便利になって、時間の余裕が生み出されていく消費でした。掃除という家事だけを見ても、ほうきから掃除機、充電式クリーナー、さらにはルンバといった自動ロボット型掃除機まで。その便利さを買うために、人は朝から晩まで働き、時間を換金して、暇を作ってきたわけです。

そうして便利になった結果、人々は余った時間を何に使うか、つまり「暇つぶし」に戸惑うようになります。次第にモノづくりよりも「暇つぶし」のコンテンツを提供する産業が注目されるようになりました。

20世紀までは無料で24時間アクセスできるテレビが「暇つぶし」のコンテンツとして圧倒的な地位を占めていましたが、携帯電話やスマートフォンの普及につれて、余った時間を使う「暇つぶし」の主役にウェブ上のサービスが台頭してきました。

上に述べた「20世紀型」の帰結として「21世紀型」は消費者に対していかに「暇つぶし」を提供するかが重要となりました。パズドラなどの課金型オンラインゲームなどはまさにその典型だと言えるでしょう。

無限の「20世紀型」、有限の「21世紀型」

さらに言えば、「20世紀型」と「21世紀型」の大きな違いは需要が有限か無限かという点です。「20世紀型」の場合はイノベーションが続けば、理論としては無限に需要が創出できます。一方で、「21世紀型」は、「暇」つまり「個人の時間」がイコール需要です。これに関しては、1人当たりの時間は1日24時間と定められており、経済成長で増やすことはできません。

「21世紀型」で重要なことは、顧客の「暇」を囲い込むことです。ライバルには顧客の「暇」を取り合う全て、ゲームやテーマパークだけでなく、学校や職場なども含まれるかもしれません。

増田氏が示す幸福は、この「暇」を囲い込んだ上で、いかにして充実させるかということにかかっています。「暇」を消費するだけでなく、より質の高いものにすることを本書では「自分への投資」という言葉で表現しています。

「サードステージ」とは、あくまでも「21世紀型」のルールの中で、充実した「暇つぶし」を手に入れることができる社会だと言えます。

この状況に対して、TSUTAYAは「コンシェルジュ」と「ビッグデータ」を使いこなし対応するそうです。

「顧客」を囲い込む

TSUTAYAが用いる「ビッグデータ」はTポイント会員のデータです。ポイントサービスを用いて、5000万人のさまざまなデータを用いた統計分析を行っていきます。その中から、教養をもった「コンシェルジュ」がさまざまなライフスタイルを提案する、つまり、「顧客」1人ひとりの時間の使い方を提案していくわけです。

確かに今年の3月、BABYMETALの武道館ライブを見に行った際、代官山のTSUTAYAの視察に行ったところ「富山フェア」が行われていました。推測ではありますが「ビッグデータ」からトレンドの「富山」を選択して、「コンシェルジュ」の“教養”から生まれる多種多様なアイデアを代官山に並べたのでしょう。

「居心地」のよい場所

本書によれば、書籍や映画を購入するのは、そのモノを買うのではなく、作品に影響される自分への投資なのです。つまりライフスタイルの変化を買っているのです。

そして、コンシェルジュの「提案」を受け、「どういう自分になりたいか」をのんびり選択できる場を作ることが重要だといいます。

極端に言えば、何の目的もなく、ぶらりと来ても、1日時間をつぶすことができる「居心地」の良い空間を作ることこそがTSUTAYAの使命なのです。

確かに代官山のTSUTAYAに行った際も、増田氏が「森の中の図書館をイメージした」というように、いい意味で時間に追われていない、ゆったりとした空間で利用者が思い思いの時間を過ごしていました。

少し、実務よりの話になりますが、小売業の売上を上げる方法として、店での滞留時間を延ばす方法があります。例えば、生活必需品や生鮮食品を店の奥に配置したり、ドンキ・ホーテのように店の棚配置を入り組んだものにしたり、さまざまな工夫が行われています。

同じように、TSUTAYAの「居心地」の良い空間は顧客の滞留時間を延ばすことになりますが、商品の配置による構造的なものではなく、顧客が自発的に滞留するという点が大きな違いだといえるでしょう。

「ぶらりする街」

話をはじめに戻しまして、2016年、枚方にTSUTAYAが帰ってきます。TSUTAYAを中心に考えたとき、京阪枚方市駅前は「ぶらりする街」になるかもしれません。

当てもなくぶらりとすれば、新しい出逢いが待っている。それは人かもしれないし、書籍かもしれないし、もっと違ったものかもしれない。そして、出逢いを経験した人は顧客となり、リピーターとなっていくでしょう。

大事なことは「何か面白いことに出会いたい」という私たちの気持ち、そして、「これは面白い」と感じることのできる感性といえるかもしれません。

最後に、増田氏が創業当時に書いた文章の一部を引用して筆を起きたいと思います。

「若者文化の拠点として、枚方市駅からイズミヤの通りがアメリカの西海岸のようなコミュニケーションの場として発展する為の起爆剤になりたく思う」


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【九森信造】枚方という呪/京都と大阪のあいだ【枚方三部作】

   ↑  2015/04/18 (土)  カテゴリー: 九森信造
映画『陰陽師』において、安倍晴明は、名前は呪(しゅ)であり、名付けることは、その名前の呪にかける、すなわち、その名前の持つ運命を与えることだといいました。

大阪第4の市である枚方市も、この「枚方」という名前を宿してから、名前の持つ運命を引き受けることになりました。


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まず、枚方という名前は、江戸時代に栄えた東海道56番目の宿場町、枚方宿(ひらかたしゅく)から取られたものです。この枚方宿は、現在の京阪枚方市駅から枚方公園駅まで続く街道筋に設置されていました。

人工的に生まれた宿場町

この枚方宿は、豊臣秀吉が築いた堤防「文禄堤」が、伏見城から大阪城までを結ぶ街道(京街道)として用いられるようになったことで発展しました。その後、徳川幕府の下で東海道の宿場町として指定されたのです。

「文禄堤」は、今で言えば公共事業にあたり、その上で生まれた枚方宿は人工的に作られたものだといえます。しかも、舟運が発達した淀川に沿っているため、上流の京都から下流の大阪へは船を利用する旅行者が多く、枚方宿は上りの利用者がほとんどの「片宿」となりました。

一方で、幕府指定の宿場町であるため、大名行列や幕府の役人に対しては非常に安価でサービスを提供するよう強いられ、慢性的な財政難に陥りました。

遊郭が支えた宿場町

その財政難に対して、宿場町の商人たちが何もしなかったわけではありません。舟に乗ったお客も取り込み、利用者を増やすためのアイデアが三十石船の唄に隠されています。

ここはどこじゃと 船頭衆に問えば 
ここは枚方 鍵屋浦
鍵屋浦には 碇はいらぬ 
三味や太鼓で 船止める


鍵屋というのは、今では歴史資料館として改修され、枚方宿の当時の様子を偲ばせる観光スポットとなった料亭のことです。

三味線や太鼓で船を止める、端的に言えば、芸者さんや遊郭が旅行客の足を止めていたのです。このことは、当時の枚方宿を利用した外国人の日記にも残っています。

ちなみに、第2部で取り上げたTSUTAYAの名前は、創業者の家が、かつて枚方宿の置屋であり、その屋号が「蔦屋」だったことから取られています。

宿場町のしわ寄せ

光があれば、影がある。枚方宿の活気を盛りたてるために作られた遊郭ですが、その遊女たちにまつわる、悲しい民話が残っています。

枚方宿の街道から少し山手のほうに入ったところにある台鏡寺。そこにいらっしゃる夜歩き地蔵様。地蔵様なのに足が汚れていることからその名前が付けられました。

どうして夜歩きをしていたかといえば、置屋に囲われた遊女たちがこの地蔵様を心のよりどころにして、夜な夜なお参りに来ており、その気持ちに寄り添うため、地蔵様も夜な夜な歩いていたからだそうです。

財政難の宿場町、そのしわ寄せが弱い立場の人々に押し寄せていたのです。

焼き討ちされた枚方寺内町

もう少し時代を遡りましょう。枚方宿に指定されたのは、岡村、岡新町、三矢、泥町でした。それよりも前に枚方の名前を冠していたのは、街道筋より一段高い地区でした。旧国名でいえば茨田郡枚方村、今の枚方上之町、枚方元町あたりになります。

この枚方元町には、浄土真宗大谷派の願生坊という寺院があります。戦国時代に入るまではこの願生坊(当時の名は順興寺)を中心とした寺内町として栄えていました。この願生坊は真宗の中興の祖である蓮如上人の息子、実如によって1514年に建立されました。

当時、浄土真宗の勢力は武将を脅かすほどであり、その中心が石山本願寺でした。今では、織田信長に焼き討ちされ、跡地に大阪城がそびえています。願生坊は当時、石山本願寺並の権限を与えられており、寺内町には大きな油屋が商売を営んでいました。

織田信長は、願生坊を焼き討ちしませんでしたが、油屋を焼き討ちし、その跡地に信長が懇意にしていた日蓮宗の大隆寺が建立されました。その大隆寺の改装工事の際、大量の油壺が見つかったのは知る人ぞ知る事実です。おそらくは、願生坊の勢力を衰えさせる狙いがあったのでしょう。

京都と大阪のあいだ

第1部で取り上げた、死者の供養の意味合いを持つ花火も、上流に京都という都があったがゆえに生まれました。さらに、現代につながるTSUTAYAも京都と大阪に挟まれた宿場町の遊郭から生まれました。

「枚方」という呪は、京都と大阪という二大都市の政治の狭間で翻弄され、時代の矛盾を抱えながらも、自分で立ち上がる努力を続けていく宿命を背負うことではないでしょうか。

そのメンタリティを歴史とともに伝えていくことこそ、真の意味での「まちおこし」なのだと思います。皆様、三部作お付き合いいただきありがとうございました。

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2015/04/18 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |