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【エトジュン】『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』第40話

   ↑  2013/07/13 (土)  カテゴリー: エトジュン
『おジャ魔女どれみ』シリーズ第4作『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』より、第40話「どれみと魔女をやめた魔女」を紹介しよう。


ojamajo.png


物語は、下校途中にある4本の分かれ道からはじまる。ひとつは藤原はづき(はづきちゃん)と瀬川おんぷ(おんぷちゃん)が帰る道、ひとつは妹尾あいこ(あいちゃん)と飛鳥ももこ(ももちゃん)が帰る道、ひとつは「MAHO堂」へと続く道、ひとつは「MAHO堂」への回り道である。

ある日、ひとりになった春風どれみ(主人公)は4本目の道を行くことにする。そして、ミライさん(魔女をやめた魔女)のガラス工房にたどりつく。

【ミライさんの発言】

「ガラスってね、冷えて固まっているように見えて本当はゆっくり動いているのよ。[…]ただし何年も何百年も何千年もかけて少しずつ、ゆっくりと。あんまりゆっくりなんで人間の目には止まっているようにしか見えないだけ。でも何千年も生きる魔女はガラスが動いているのを見ることが出来る。いずれ私もそれを見る」


ガラスは「人間の目には止まっているようにしか見えない」のである。

【ミライさんの発言】

「私ここを引っ越すの。ヴェネチアの知り合いがね、こっちに来て勉強してみないかって言ってきてくれたの。彼もうすぐ90なんだけど、彼にガラスを教えたの、実は私なんだ。[…]彼はいま私のことを昔好きになった人の娘や孫だと信じてる。だから私も彼が昔好きだった人の娘や孫を演じ続ける。魔女にはこんな生き方もあるのよ。分かる?」


なるほど、魔女は「人間の目には止まっているようにしか見えない」のである。

ところで、どれみはちょうど将来について悩んでいた。

【どれみの発言】

「あたしも何か得意なものがあればなあって。[…]あたしだけ、どうしていいか分からなくて。何にも見えなくて」


ミライさんは「魔女になること(人間ではなくなること)」を誘う。

【ミライさんの発言】

「あなたは人間でまだ魔女見習い。魔女の世界を知っているようで実はガラス越しにしか見ていないようなもの。でも、もしその先を見てみたいなら、ヴェネチア、私と一緒に来る?どれみ、私と一緒に来る?」


そうして、どれみはある決断を下すことになる。

本作は「魔女になること(人間ではなくなること)」に向き合う話なのだ。

さて、筆者が着目したいのは、どれみたちが国語の授業で梶井基次郎の小説『檸檬』を読んでいたことである。

【先生の音読】

「『あ、そうだそうだ』そのとき私は袂の中の檸檬を憶い出した」


参考までに『檸檬』の一節を読んでみよう。

「一体私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。」


「絵具を固めたような色」をした檸檬の時間は止まっているように見える。筆者の考えでは「どれみ」におけるガラスは『檸檬』における檸檬である。

ところで、魔女のメタファーとしてガラスを用いている本作では、映像の面でもガラスの表現が充実している。その演出を手掛けたのは、巨匠・細田守である。

「どれみと魔女をやめた魔女」は、シリーズの最高傑作だといえるだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-6.html

2013/07/13 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』庵野秀明出演回

   ↑  2013/07/20 (土)  カテゴリー: エトジュン
7月20日(土)は、映画『風立ちぬ』の公開日である。原作・脚本・監督を宮崎駿が務め、主人公の声を庵野秀明が演じている。

今回は、鈴木敏夫によるラジオ番組『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』より、庵野さんをゲストに迎えた第119回と第120回を紹介しよう。

鈴木:僕は、誤解も与えますが、宮さん [ 宮崎駿 ] の一番すごい仕事って、やっぱり『ホルス』だと思うんですよ。最後のモブシーン。あれ宮さんだよね。いろんな人が縦横無尽に動く。それで空間がどんどん広がっていく。あれはちょっと舌を巻くんですよ。

庵野:宮さんのモブは本当にすごいですよね。


『ホルス』とは、監督・演出を高畑勲が、場面設計・美術設計を宮崎駿が務めたアニメ映画『太陽の王子ホルスの大冒険』のことであり、ジブリの原点となった作品である。

高畑・宮崎のコンビは、その後『ルパン三世(TV第1シリーズ)』『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『風の谷のナウシカ』を生み出していくことになるが、彼らの作品を作る拠点としてスタジオジブリが設立されることになった。

その第一回作品が『天空の城ラピュタ』であり、厳密にはラピュタ以降がジブリ作品ということになるだろう。

鈴木:それで映画見るとね、高畑さんは一方で現実を映画のなかに入れようとするし、宮さんはその現実は置いといて。ところが映画作り始めると、宮さんは間に合わないと思ったらコンテを変えてでもその映画を完成させようとするっていう現実主義があるのよ。高畑さんは違うんだよね。

庵野:変えないですよね。


ここでいう「コンテ」とは、脚本をアニメにする際の設計図のことである。高畑さんは現実主義的な映画を理想主義的に、宮さんは理想主義的な映画を現実主義的に作っているようだ。

『かぐや姫の物語』が『風立ちぬ』との同時公開に間に合わなかったのも、高畑さんが理想主義的な作り方を貫いた結果なのだろう。

ところで、庵野さんは『風の谷のナウシカ』で巨神兵を描いたアニメーターである。

庵野:『ナウシカ』の打ち上げのときに[…]、宮さんが「人間なんてね、滅びたっていいんだよ!とにかくこの惑星に生き物が残ってれば、人間という種なんていなくなっても全然いいんだ!」っていうのを怒鳴ってるのを僕は横で聞いてて、この人すごいとそのとき思ったんですね。クリエイターとして宮さんが好きになった瞬間でしたね。


宮さんと庵野さんの関係はそれ以来続いており、宮さんの『もののけ姫』と庵野さんの『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版』が公開された1997年夏には「師弟対決」などともてはやされた。庵野さんが声優として起用された背景にも、師弟関係があったのだろう。

宮さんの『風立ちぬ』、高畑さんの『かぐや姫の物語』を楽しむためにも、ラジオ番組『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』はオススメである。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-23.html

2013/07/20 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『風立ちぬ』(メガネ男子の話)

   ↑  2013/07/27 (土)  カテゴリー: エトジュン
今回は、映画『風立ちぬ』の内容には触れずに、それを「見る/語る」ための着眼点を紹介しよう。


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まず、私たちは「リアルであること」と「リアリティがあること」を分けて考えなければならない。

前者は「現実的であること」、つまり現実の写し絵であることを意味し、後者は「現実感があること」、つまり現実のことのように説得力があることを意味している。

映画に求められるのは「リアリティがあること」だが、私たちは「リアル」を手掛かりに「リアリティ」を感じるため、多くの場合は「リアルであること」が求められる。

さて、映画の登場人物における「リアリティ」は、その外見が内面を表すことで成立している。太ったキャラクターは、だいたい食いしん坊である。

では、映画『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎の外見(メガネ男子)は、どのような内面を表しているのだろうか。

ここでは「メガネ男子論」における先行研究を参照しよう。

「眼鏡の内に他人が容易に触れることのできないもうひとつの世界を抱えている、それがメガネ男子だ。眼鏡は彼らの深奥なる内面世界の存在を示唆すると同時に、それを外界から隔てる開かずの扉だ。」

夏休み集中連載:「メガネ男子」その1・メガネという枠 - ITmedia ニュース


なるほど、この分析に当てはまるキャラクターは多い。たとえば、名探偵のコナンくんが挙げられるだろう。

ところで、コナンくんのメガネは白く光る。これを「レンズ効果」という。

「ここでの眼鏡は『心の窓』とも呼ばれる目を覆い、表情を隠し、メガネ男子の本質である(と見なされている)彼らの内面世界がわれわれからいかに遠いものであるかを印象づける。」

夏休み集中連載:「メガネ男子」その3・レンズ効果 - ITmedia ニュース


もちろん「レンズ効果」は「リアル」ではあり得ない。ところが、私たちは「リアリティ」を感じている。なぜなら、キャラクターの外見(不透明)が内面(不明)を表しているように見えるからだ。

「普段は存在を意識させない透明なレンズが、あるとき彼我を決定的に隔てる壁として立ち現れ、背筋をぞくりと冷たいものが這う。そして眼鏡こそが、そうした彼らの本質を覆い隠しているようにも思えてくる。」

夏休み集中連載:「メガネ男子」その3・レンズ効果 - ITmedia ニュース


筆者が着目したいのは「壁としてのレンズ」という概念(着眼点)である。映画『風立ちぬ』には「レンズ効果」そのものは描かれないが、そこにレンズがあることを強調する演出がなされている。

それでは、堀越二郎の外見はどのような内面を表しているのだろうか。映画『風立ちぬ』は、メガネに着目して「見る/語る」べき作品である。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-26.html

2013/07/27 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』【横山由依】

   ↑  2013/08/03 (土)  カテゴリー: エトジュン
横山由依さんが『桐島、部活やめるってよ』の読書感想文を書いている。

「ただ、自分というものは変えられると私はAKB48に入ってわかりました。[…]くっきりとした課題とやりたいこと、それを乗り越えたいという気持ちで毎日が充実したと感じます。」

「そういう日常での小さな出来事の積み重なりが自分というものを形成して、更には自分というものを変えていくんだなと思いました。」

【ナツイチ図書室 AKB48 読書感想文大公開】横山 由依の課題図書「桐島、部活やめるってよ」の読書感想文はこちら!


まとめると「自分」は「日常での小さな出来事の積み重なり」によって形成されるから「変えられる」ということだ。「毎日が充実」すれば自分も変わるというわけである。

今回は「毎日が充実」ということに着目して『桐島、部活やめるってよ』を読むことにしよう。


桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)


主な登場人物は、小泉風助(バレー部)、沢島亜矢(吹奏楽部)、前田涼也(映画部)、宮部実果(ソフト部)、菊池宏樹(?)である。

なかでも宏樹は「毎日が充実」しているように見える。彼女の沙奈は言う。

「宏樹超かっこよかった!サッカーもうまいんやね!てかやっぱ竜汰くんとか友弘くんとか、宏樹といつも一緒の男子ってかっこいいよね」


宏樹はいわゆる「リア充(リアルタイムが充実している人)」なのだ。放課後を彼女や友達と過ごし、リアルタイムを共有することで充実させている。

「たぶん、俺はうまくやっていける。騒ぐのが好きなお洒落で目立つ友達に囲まれて、クラスでも一番『上』のグループにいて[…]、彼女の沙奈だってそれなりにかわいい。」


それに対し、映画部の前田はどうだろうか。

「僕は映画部に入ったとき、武文と『同じ』だと感じた。そして僕らはまとめて『下』なのだと、誰に言われるでもなく察した。」


なるほど、宏樹は「上」で、前田は「下」だ。では、前田は「毎日が充実」していないのだろうか。そんなことはない。

「僕らには心から好きなものがある。それを語り合うときには[…]、世界が色をもつ。」


前田は「心から好きなもの」によって「毎日が充実」しているのだ。

さて、物語のクライマックスは、宏樹と前田が出会う場面である。前田的な充実を突き付けられたとき、宏樹は何を思うのだろうか。

とはいえ、『桐島、部活やめるってよ』は「スクールカースト(教室内ヒエラルキー)」の「上」と「下」が対決する物語ではない。「日常での小さな出来事の積み重なり」によって、宏樹が変わっていく物語である。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-29.html

2013/08/03 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】サン=テグジュペリ『星の王子さま』【島崎遥香】

   ↑  2013/08/10 (土)  カテゴリー: エトジュン
島崎遥香さんが『星の王子さま』の読書感想文を書いている。

「この物語に登場するきつねの言葉が私はとても好きです。きつねが言っていた通り街を歩いてみたらすれ違う人々はその他、何十万人もの人に違いないけれどもし、そのすれ違った人と何かのきっかけで友達や家族になれたら、関わりを持てたらその人は私にとって特別な人に変わるはずです。」

【ナツイチ図書室 AKB48 読書感想文大公開】島崎 遥香の課題図書「星の王子さま」の読書感想文はこちら!


今回は「その他」と「特別」に着目して『星の王子さま』を読むことにしよう。


星の王子さま (集英社文庫)


王子さまの星には、ふたつの活火山とひとつの死火山、そして花びらが一重のあっさりした花しかなかった。ところがある日、それまでなかった木が芽を出し、やがてバラの花が咲いた。

「この花があまり謙虚な性格ではないことに王子さまは気づいたけれど、それも無理はないと思わせるほど彼女は美しかった!」


バラは「バラであること」によって特別になった。バラは「その他(バラではないもの)」と比べて特別になったのである。

それからというもの、王子さまは何でもバラの言う通りにしたが、バラの言葉にはトゲがあった。

「そんな風にして、愛しているし何でもするつもりでいるにもかかわらず、王子さまは彼女を少し疑うようになった。あまり意味のない言葉をいちいち真剣に受け止めては辛い思いをした。」


そうして、王子さまは星を出て行くことにした。

星めぐりをはじめた王子さまは、地球という星を知った。地球に行くとき、王子さまはバラのことを考えていた。

「ぼくの花ははかないんだ、と王子さまは考えた。世界から身を守るために、たった4本のトゲしか持っていない!それをぼくはひとりぼっちで置いてきた!」


王子さまは、トゲのある言葉に隠されたバラの弱さに気付いたのである。

さて、地球に降り立った王子さまは「バラたち」に出会う。そこでは「バラであること」によって特別になることはできない。では、王子さまのバラは特別ではないのだろうか。

そんなことはない。王子さまのバラは「王子さまのバラであること」によって特別なのだ。王子さまのバラは「その他(バラたち)」と比べて特別なのである。

また、王子さまのバラであるということは、王子さまに「飼い慣らされた」バラであるということだ。「飼い慣らす(アプリボワゼ)」とは、絆を作るという意味である。

「ぼくは何もわかっていなかった!言葉じゃなくて花のふるまいで判断すればよかったのに。[…]でもぼくも若かったし、彼女の愛しかたがわからなかったんだ」


そうして、王子さまはバラとの関係をやり直すために星に帰ることにした。

『星の王子さま』は、特別な人の特別さに向き合う物語だといえるだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-35.html

2013/08/10 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】丸山真男『日本の思想』を読む

   ↑  2013/08/11 (日)  カテゴリー: エトジュン
丸山真男の『日本の思想』(岩波新書、1961年)を紹介します。


日本の思想 (岩波新書)


第Ⅰ章「日本の思想」の問題意識は、日本の思想と呼ぶべきものが体系的に整理されて来なかったことに置かれています。丸山は「思想が蓄積され構造化されることを妨げてきた諸契機」を挙げ、その原因を明らかにしていきます。

また、明治以降に「日本人の精神的なよりどころ(國體)」の機軸を担った近代天皇制について論じ、それを創り出した日本人の精神(日本の思想)を浮き彫りにしていきます。

ここで重要なのが「官僚的思考様式(理論信仰)」と「庶民的思考様式(実感信仰)」の対立です。さらに、マルクス主義の受容をめぐって「社会科学的発想(理論的)」と「文学的発想(実感的)」が対立したことを挙げています。

そうして、これらの異質な思想どうしが本当に交わらずに、ただ空間的に同時存在している「雑居性」こそが日本の思想の問題点だと指摘しています。

また、丸山は「雑居」は「雑種」にまで高められる必要があり、そのエネルギーは強靭な自己制御力をもった主体なしには生まれないのだと述べています。

第Ⅱ章「近代日本の思想と文学」では、文芸復興期(1930年代前半)における「文学主義と科学主義」という論点の背景として、プロレタリア文学理論の時期(1920年代前半~1930年代前半)における「政治的なるものと科学的なるもの」の関係を探っていきます。

いわゆる「政治と文学」の問題に「科学」を付け加えることで、日本の思想のすがたを明らかにしようとする試みです。

ここでもやはり「科学主義(理論的)」と「文学主義(実感的)」を対立させる枠組みが用いられており、それらの根本的な結合を目指すべきだというのが丸山の主張なのです。

第Ⅲ章「思想のあり方について」では「タコツボ」という概念が登場します。タコツボとは、それぞれの集団が独立して存在し、交流をもたないことの比喩です。

丸山は、日本ではイメージ(ステレオタイプ)の横行が起きやすいという問題を提起し、その理由として、近代以降に西欧から取り入れられた社会組織が「タコツボ型」であったことを挙げています。

タコツボ型の組織どうしの間には交流がないため、相手に対するイメージがどうしてもステレオタイプ的になってしまうのです。

日本の組織のタコツボ化は「ムラ社会」のような前近代的なものの発現として捉えられがちですが、丸山はそれを近代的な機能分化の発現として捉えています。

第Ⅳ章「『である』ことと『する』こと」では、近代化のプロセスを「である」論理から「する」論理への相対的な重点の移動として説明しています。

「である」論理とは、ものごとの静的な状態を重視する態度のことであり、「する」論理とは、ものごとの機能と効用を問い続ける動的な態度のことだといえます。

丸山は「民主主義の永久革命論者」を自称していましたが、彼にとって民主主義は「する」論理に属するものでした。

しかし、日本の民主主義は西欧から「である」もの(目指すべき状態)として輸入されたものであり、その原理を「する」論理として受け入れた人間は限られていました。

また、日本では国民が自分の生活や実践のなかから制度をつくった経験が乏しいため、官僚的思考様式(理論信仰)によって定められた「制度」が、庶民的思考様式(実感信仰)の「精神」と対立するのだと述べられています。

『日本の思想』は現代にも通用する古典的名著だと思いました。加藤周一が「雑種」について言及した「日本文化の雑種性」も読みたいです。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-32.html

2013/08/11 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】内田義彦『読書と社会科学』を読む

   ↑  2013/08/25 (日)  カテゴリー: エトジュン
内田義彦の『読書と社会科学』(岩波新書、1985年)を紹介します。


読書と社会科学 (岩波新書)


読書と学問(社会科学)について考えたとき、ふと思いつくのは、どの学問にも「古典(×古文・漢文)」と呼ばれる本が存在することです。それは、時代を経るなかで読み継がれてきた古い本だから、古典と呼ばれています。

では、古典が読み継がれてきたのはなぜでしょうか。時代を超えて通用するのはなぜでしょうか。本書を使って解答してみましょう。

まずは、本について、それは著者の思考の枠組みが著されたものだといえます。したがって、読書はそれを追体験する営みだといえるでしょう。

ここでいう「思考の枠組み」とは、世界を認識するための装置として頭のなかに組み立てられるもの、つまり「ものごとをどのように捉えるか」という方法論のことです。

たとえば、自然科学の研究者が顕微鏡などの「物的装置」を用いて自然現象を見つめているように、社会科学の研究者は「思考の枠組み(概念装置)」を用いて社会現象を見つめています。

社会というぼんやりとした対象を観察するには「社会をどのように捉えるか」という方法論(思考の枠組み)が必要なのです。

ところで、知識が時代とともに変化するのに比べ、思考の枠組み(ものごとの捉え方)は時代を超えて通用するものだといえます。

古典が読み継がれてきたのはズバリ、優れた思考の枠組みを備えているからなのです。より正確にいえば、優れた思考の枠組みを備えた本が読み継がれ「古典」になるのだといえるでしょう。

それでは、古典の話を応用して、大学での学びについて考えてみます。

まず「学問(社会科学)」とは何か。それは、自分で提起した問題に対し、古典として著された「思考の枠組み」を応用して考えてみることです。

たとえば、大学の一年生はたいてい「基礎○○学」や「○○学概論」などの授業を受けますが、あれはその学問の古典は何か、つまりその学問が使ったり応用したりしている思考の枠組みがどのようなものかを教える授業なのです。

そして、一年生の時に身につけた思考の枠組みを自分の研究対象に応用したり、その対象に合わせて変形したりすることを通して、自分なりの「ものごとの捉え方」を体得するのであり、その過程こそが大学での学びだといえるでしょう。

本の紹介といいつつ、書評らしくない文章になりました。筆者は、自分で提起した問題に対し、読書論の古典『読書と社会科学』を使って考えてみたのです。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-36.html

2013/08/25 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『もののけ姫』(自然と体現の話)

   ↑  2013/12/01 (日)  カテゴリー: エトジュン
今回は「自然」と「体現」に着目して『もののけ姫』を見ることにしよう。


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「自然」と書いて「ジネン」と読むとき、それは「ありのままであること」を意味する。日本人の祖先は「ありのままであること」に神秘を見出し、それを体現する「ありのままであるもの」を信仰していた。

「ありのままであるもの」とは、山や川、そして動物など、人間の作為が加わっていないもののことであり、今でいう「シゼン」のことである。

実は「自然」と書いて「シゼン」と読むとき、それは「突然」ということを意味していた。それが「ありのままであるもの」を意味するようになったのは、英語の「nature」の訳語として当てられたためである。

逆に言えば、かつての日本語には「nature」にあたる語、すなわち「ありのままであるもの」を意味する語がなかったということだ。

なるほど、日本人の祖先は「ありのままであるもの」を信仰していたが、それを「シゼン」と呼んでいたわけではないのである。

しかし、今回は便宜上「ありのままであるもの」を「シゼン」と呼ぶことにしたい。日本人の祖先は「シゼン」を信仰していたのである。

ところで、彼らにとっての「ジネン(ありのままであること)」とは、一体どういうことだろうか。結論から言えば、それは「矛盾していること」である。

「私たちも夏の暑さにはうんざりさせられるが、その暑さが作物を育てる。冬の大雪は大変でも、大雪が降る地域では杉がよく育ち、山菜も豊富である。こういう風土に生きた人々は、合理的な精神をもつことより、矛盾とつき合い、矛盾と折り合いをつける能力を高めた。」(内山節)


彼らにしてみれば、矛盾こそが「ジネン」なのであり、それを体現するのが「シゼン」なのである。

「山も、滝も、岩も、ジネンの世界がみせた姿なのである。だからこの思想はすべてのものに精霊が宿るというより、ジネンの世界がさまざまなかたちで現れているからそこに手を合わせるのであって、精霊信仰とはちょっと違う。」(内山節)


それでは、以上を踏まえて『もののけ姫』を見ることにしよう。


もののけ姫


図は、シシ神が歩くシーンだ。シシ神が一歩踏めば、そこから新しい生命が息吹をあげ、足を離せばたちまち枯れてしまう。これを解釈すれば、シシ神は生と死をあわせ持った存在だといえるだろう。

登場人物の台詞でいえば「シシ神は死にはしないよ。命そのものだから。生と死とふたつとも持っているもの」ということである。

そして、ここに日本人の祖先の信仰を見出すことができる。シシ神は、生と死という正反対の、あるいは矛盾する概念を体現する存在なのだ。

登場人物たちは「ジネン(矛盾していること)」に神秘を見出し、それを体現する「シゼン(シシ神)」を信仰しているのである。

このように『もののけ姫』は、日本人の祖先の信仰を描いた作品だといえるだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-47.html

2013/12/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『千と千尋の神隠し』(自己と他者の話)

   ↑  2013/12/08 (日)  カテゴリー: エトジュン
今回は「自己」と「他者」に着目して『千と千尋の神隠し(千尋)』を見ることにしよう。


千と千尋の神隠し [DVD]


まずは、オリエンタリズムの作品、すなわち「自己を規定するための他者」を描いた作品を見ることにしたい。

リンダ・ノックリンによれば、オリエンタリズムに典型的な主題として、裸の女性に対する所有幻想があるという。

たとえば、ジャン=レオン・ジェロームは、裸の力ない女性と着衣の力強い男性を様々な設定のなかに描いた。ここでは「奴隷市場」を参照しよう。


gerome.png


「(奴隷として描かれた)彼女たちは、どこか遠くで自分たちの意思に反して捉えられた無垢の女性として描かれており、その裸体は、非難ではなくむしろ同情される対象となっている。彼女たちはまた、誘惑的な肉体をおおうよりはむしろ、目をそらすという迎合的な態度をとっている。」(ノックリン)


ジェロームの絵画は、作品を鑑賞しながら、女性を鑑賞できるようになっている。女性の裸体は、作品を鑑賞するうえでは同情の対象となり、女性を鑑賞するうえでは欲情の対象となるのだ。

「(ジェロームの様式は)同時代のほとんどの観者に、穏健な『客観性』を通して、彼の話の中における登場人物たちが、論争の余地のない『他者であること』を保証することによって、主題を正当化したのだった。」(ノックリン)


ジェロームの絵画は、観客にとっての「他者」を描いている。観客は、女性に欲情する「他者」を眺めながら、女性に同情することで「自己」の正当性を担保し、それから女性に欲情することが出来るのだ。

それでは『千尋』を見ることにするが、本作の舞台となる「油屋」には売春宿のモチーフが用いられている。また、千尋は「湯女」として働くことになるが、これは売春婦のことである。

その裏付けとして、宮崎駿の発言を参照しよう。

「いまの世界として描くには何がいちばんふさわしいかといえば、それは風俗営業だと思うんですよ。日本はすべて風俗営業みたいな社会になってるじゃないですか。」(日本版プレミア2001年9月号)


もちろん、これは作者の意図であり、作品がこの通りに解釈されなければならないということはない。映画とはテクスト(解釈の対象)であり、観客が自由に解釈するものだからである。

とはいえ、今回は作者の意図を踏まえながら作品を解釈することにしよう。

まず、千尋が売春婦であるとすれば、それを買うのは「油屋」の客、つまり「やおよろずの神々」ということになる。なかでも特徴的なのは、千尋を追いかけまわすカオナシだ。

カオナシは、黒い影にお面をつけた見た目で、無表情かつ得体の知れない存在である。そして言葉をもたないため、手から砂金を出すなどして千尋の気を引こうとした。カオナシは、まさに千尋を買おうとする客なのである。

では、売春宿を舞台にした『千尋』において、千尋を買おうとする客がカオナシなのはなぜだろうか。

先にも述べたように、カオナシとは「得体の知れない存在」であり、観客にとっては「他者」ということになるだろう。

観客は、千尋に欲情する「他者(カオナシ)」を眺めながら、千尋に同情することで「自己」の正当性を担保し、それから千尋に欲情することが出来るのだ。

それでは「自己」の正当性を担保するために「他者(カオナシ)」を必要とするのは誰だろうか。この問題提起に答えるのは困難だが、それを宮崎駿とする解答は最も有力なのではないだろうか。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-41.html

2013/12/08 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『ビューティフルドリーマー』(夢と悪夢の話)

   ↑  2014/02/01 (土)  カテゴリー: エトジュン
今回は「夢」と「悪夢」に着目して『ビューティフルドリーマー』を見ることにしよう。


ramu.png


まず、本作の舞台は「ラムの夢」の世界である。それを作ったのは、夢邪鬼という妖怪だ。

夢邪鬼「ワテねえ、長いあいだ捜し求めておりまして。途中で悪夢に変わったりせえへん純粋な夢、永遠の夢の世界を作りたい。あんたんなら大丈夫。ワテには分かりまんねん。さ、聞かせておくれやす」

ラム「ウチの夢はね、ダーリンとお母様やお父様やテンちゃんや、終太郎やメガネさんたちとずうっと、ずうっと楽しく暮らしていきたいっちゃ。それがウチの夢だっちゃ」


こうして「ラムの夢」の世界が始まった。

さて、筆者が着目したいのは「夢」と「悪夢」である。

夢邪鬼「ワテが作るんは、そのお人が見たいと思とる夢だけや。そやから夢が邪悪なもんになったんやったら、それはそのお人に邪悪な願いがあるからや」

[…]

夢邪鬼「ええ夢かてぎょうさんおましたんやでェ!せやけど、みんな長続きしまへんねん。みんなワテを追い越して悪夢になって、最後はがしんたれに食われてしまいまんねん」


なるほど、夢邪鬼によれば「そのお人」の「夢」が「そのお人」の「悪夢」になって、最後はがしんたれに食われてしまうらしい。

がしんたれとは役立たずのことであり、ここではバク(悪夢を食う伝説の獣)のことである。

また、夢邪鬼によれば「ラムの夢」は「途中で悪夢に変わったりせえへん」夢であり、それは永遠に続くはずだった。ところが、あたる(主人公)によってぶち壊されてしまう。

夢邪鬼の弱みを握ったあたるは、取引として「あたるの夢(ラム抜きのハーレム)」を実現させるが、それが「悪夢」に変わってしまい、バクを呼んでしまう。バクは「あたるの夢」はもとより「ラムの夢」まで食ってしまった。

それでは「ラム抜きのハーレム」が「悪夢」に変わったのはなぜだろうか。それは、あたるが「ラム入りのハーレム」を求めるようになったからである。

あたる「ラム抜きのハーレムなど不完全な夢、肉抜きの牛丼じゃ!そんなモンぶち壊しておれは現実へ帰るぞ!」


このように「あたるの夢」が「悪夢」に変わったのは、あたるの願望が変わったからである。人間の「夢」が「悪夢」に変わるのは、人間の願望が変わるからだといえるだろう。

そして「ラムの夢」が「途中で悪夢に変わったりせえへん」ということは、ラムの願望が変わらないということであり、ラムがビューティフルドリーマーだということである。

さて、すべてをぶち壊したあたるは夢邪鬼の怒りを買い、新たな悪夢に閉じ込められてしまう。そこであたるを救うのは、幼少期のラムである。

ラム「お兄ちゃん、どうしても帰りたいの?」

あたる「お兄ちゃんはね、好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたいのさ。わかんねェだろうな。お嬢ちゃんも女だもんな」


なるほど、あたるは「ラム入りのハーレム」を求めながら、ラムからは自由でいたいのだ。それは『うる星やつら』における「現実」そのものである。

ラム「教えてあげようか?」

あたる「え?知ってんの?現実へ帰る方法知ってんの?」

[…]

ラム「その代わり約束してくれる?責任とってね」


こうして、あたるは「現実」に帰還する。

ラムのいう責任とは「ラム入りのハーレム」を求めることに対する責任だ。あたるは、これからもラムを求め続けなければならないのである。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-62.html

2014/02/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】恋と愛の違いについて結論が出ました。

   ↑  2014/08/08 (金)  カテゴリー: エトジュン
恋愛はギブアンドテイクの関係であり、私のギブは相手のテイクによって成就します。テイクはギブを成就させる行為なのです。

恋愛における4つの行為「あたえる、うけとる、もとめる、こたえる」をギブアンドテイクで表せば「あたえる(ギブ)、うけとる(テイク)、もとめる(テイク)、こたえる(ギブ)」ということになるでしょう。

さて、私たちは恋愛の最中で「ギブする喜び」を感じています。あたえる喜び、こたえる喜びともいえるでしょう。

そしてそれは、相手のテイクが私のギブを成就させることで生じています。テイクはギブを成就させ「ギブする喜び」を「あたえる」行為なのです。

また、筆者の考えでは、ギブすることは「恋すること」であり、テイクすることは「愛すること」です。私のギブ(恋)は、相手のテイク(愛)によって成就するのです。

それでは、恋愛の具体的な例として『新世紀エヴァンゲリオン(エヴァ)』と『魔法少女まどか☆マギカ(まどマギ)』を見てみましょう。

前者の主題は「あれ?アスカって俺のこと好きだったのか」であり、後者の主題は「あれ?ほむらちゃんって俺のこと好きだったのか。ありがとう」でした。

『まどマギ』には「ありがとう(うけとる)」がありました。この一点において「まどマギはエヴァを超えた」といえるでしょう。

さらに、映画『魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』の主題は「もう一度あなたに会いたい(もとめる)」でした。

このように『まどマギ』は、ふたつのテイク(うけとる、もとめる)を描いた作品だといえます。筆者はそれを愛と呼んでいるのです。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-48.html

2014/08/08 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】二村ヒトシ『すべてはモテるためである』を読む

   ↑  2014/09/01 (月)  カテゴリー: エトジュン
二村ヒトシの『すべてはモテるためである』を紹介します。


すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)


本書は「なぜモテないかというと、それは、あなたがキモチワルいからでしょう」という「まえがき」から始まります。そして「キモチワルい人」を以下の4つに分類します。


sbmt_01.png


A①:かんちがいしてるバカ
A②:臆病なのにバカのふりをしている
B①:バカなのに臆病
B②:考えすぎて臆病

本書によれば、バカとは「ポジティブな自意識過剰」のことであり、臆病とは「ネガティブな自意識過剰」のことです。そうすると「B①」が気になるのですが、バカと臆病は両立するのでしょうか。

そこでヒントになるのが「A②」です。これは「(中身は)臆病なのに(外見は)バカのふりをしている」ということであり、中身と外見を分けることで、バカと臆病を両立させています。

これに習えば「B①」は「バカなのに臆病のふりをしている」ということになるでしょう。表に当てはめれば以下の通りです。


sbmt_02.png


さらに、表の縦軸(上下)は外見の問題として、横軸(左右)は中身の問題として整理することができます。


sbmt_03.png


そして、外見は行動の問題として、中身は性格の問題として整理することができるでしょう。


sbmt_04.png


最後に、右下の4マスを整理します。


sbmt_05.png


これで「キモチワルい人」を整理することができました。

ところで、本書のテーマは「バカ」と「臆病」を治すことで「キモチワルい人」を卒業することです。

たとえば「バカを治す」というセクションでは「はたしてその女性が、あなたと同じ土俵に乗ってるのかどうか」について、もう少し臆病になれといいます。

また「臆病を治す」というセクションでは「適度に自信をもつ」ために「自分の居場所」をつくれといいます。自分の居場所といっても、いわゆる仲間のことではありません。それは読んでのお楽しみです。

その他にも、ちゃんと人の話を聴くこと、変わることを恐れないこと、自分を押し付けず、ただ見せることの効用が説かれますが、これも読んでのお楽しみ。第4章「どうやって『恋愛』するのか」は必読です。

國分功一郎さんによれば「この本は、単なるモテ本ではない。実践的かつ、真面目な倫理学の本である」とのことですが、まったくその通りだと思います。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-65.html

2014/09/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】二村ヒトシ『なぜあなたは~好きになるのか』を読む

   ↑  2014/11/01 (土)  カテゴリー: エトジュン
二村ヒトシの『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を紹介します。本書のテーマは「ナルシシズム」と「自己受容」です。


なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか (文庫ぎんが堂)


まずは「ナルシシズム」について、それは自分の「心の穴」を埋めようとする行為です。

筆者の考えでは、その人の「心の穴」は、その人の「心の型」によって決まります(ドーナツの穴はドーナツの型によって決まります)。

いま仮に「わたしが好き/わたしが嫌い」の縦軸と「みんなの意見が大事/わたしの意見が大事」の横軸で4象限を作ってみましょう。


naze.png


すると、4つのうちの1つのタイプを「心の型」、その対極にあるタイプを「心の穴」として捉えることが出来ます。

たとえば、Cタイプの「心の型」には、Aタイプの「心の穴」が空いているのです。

そして、自分の「心の穴」を埋めようとする人は、それと同じタイプの「心の型」を欲望するでしょう。

たとえば、Cタイプの「心の型」は、Aタイプの「心の型」を欲望するのです。

二村さんは、自分の「心の穴」を埋めるために、他人の「心の型」を欲望するのが「恋」だといいます。

次に「自己受容」について、それは自分の「心の型」を受容する行為です。

そして、自分の「心の型」を受容する人は、それと同じタイプの「心の型」を受容するでしょう。

二村さんは、自分の「心の型」を受容するように、他人の「心の型」を受容するのが「愛」だといいます。

それでは、本書のタイトル「なぜあなたは『愛してくれない人』を好きになるのか」を考えてみましょう。

まず、人を好きになるのは、自分の「心の穴」を埋めようとするからです。

たとえば、Cタイプの「心の型」は、Aタイプの「心の型」に恋をします。

ところが、Aタイプの「心の型」は、Cタイプの「心の型」を受容しません。

すなわち、Aタイプの「心の型」は、Cタイプの「心の型」を愛してくれないのです。

こうして、CタイプはAタイプに恋をするのに、AタイプはCタイプを愛してくれないので「『愛してくれない人』を好きになる」ということになるのです。

それでは、相思相愛のカップルになるには、どうすればよいのでしょうか。

答えは簡単で、まずは自分の「心の型」を受容し、それから相手の「心の型」を受容すればよいのです。

本書には「自分を受容できるようになるための7つの方法」というセクションがありますが、それは読んでのお楽しみです。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-71.html

2014/11/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『機動戦士ガンダム』を見る

   ↑  2015/03/01 (日)  カテゴリー: エトジュン

「人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって、既に半世紀が過ぎていた。地球の周りの巨大な人工都市は人類の第二の故郷となり、人々はそこで子を産み、育て、死んでいった」


地球の周りの巨大な人工都市(サイド)とは、複数の宇宙ステーション(スペースコロニー)によって構成される宇宙共同体のことである。人類は、地球連邦政府によるサイド1の建設をもって宇宙世紀を迎えた。

それから半世紀、地球から最も遠い人工都市サイド3はムンゾ自治共和国を名乗り、地球連邦政府からの独立を宣言する。

ムンゾには2つの政治勢力、すなわちジオン・ダイクンによるダイクン派と、デギン・ザビによるザビ派があった。建国当初はダイクン派優勢であり、ジオンが初代首相となった。

ところが、デギンがジオンを暗殺し、やがてザビ派優勢となる。次期首相となったデギンは共和制の廃止を宣言し、ジオンの遺志を継ぐという建前のもと、独裁国家ジオン公国を建国した。

ところで、ジオンには2人の遺児があった。キャスバル・ダイクンとアルテイシア・ダイクンである。

父ジオンを暗殺された兄妹は、ザビ派による迫害から逃れるため、地球へと向かった。キャスバルはエドワウ・マスを、アルテイシアはセイラ・マスを名乗った。

それから数年後、エドワウはシャア・アズナブルを名乗り、ジオン公国に入国する。シャアの目的は、デギンを筆頭とするザビ家を打倒し、父の仇を討つことにあった。

ハイスクールから士官学校に進んだシャアは、ジオン軍に入隊し、公国の中枢に迫ろうとする。そんな矢先、ジオン公国と地球連邦政府の間で戦争が起こった。

「宇宙世紀0079、地球から最も遠い宇宙都市サイド3はジオン公国を名乗り、地球連邦政府に独立戦争を挑んできた。この1ヶ月あまりの戦いでジオン公国と連邦軍は総人口の半分を死に至らしめた。人々は自らの行為に恐怖した。戦争は膠着状態に入り、8ヶ月あまりが過ぎた」


この戦争の最中、シャアは2人のエスパー(ニュータイプ)に出会う。アムロ・レイとララァ・スンである。

アムロは連邦軍のエースパイロットであり、ニュータイプ能力を発揮することで、シャアの軍勢を退けていた。シャアはアムロに対抗するため、ニュータイプの少女ララァを実戦に投入する。

ところで、シャアはララァを愛していた。シャアはララァを求め、ララァはそれに応えていた。テキサス・コロニーでの会話を抜き出してみよう。

ララァ「私には大佐を守っていきたいという情熱があります」
シャア「しかし、私はお前の才能を愛しているだけだ」
ララァ「それは構いません。大佐は男性でいらっしゃるから。ですから私は、女としての筋を通させてもらうのです。これを迷惑とは思わないでください」
シャア「強いな、ララァは。そういうララァは好きだ」
ララァ「ありがとうございます」


さて、アムロとララァの能力を目の当たりにしたシャアは、ニュータイプの存在に魅入られていく。セイラとの会話を抜き出してみよう。

セイラ「けど、この戦争で、いいえ、それ以前から人の革新は始まっていると思えるわ」
シャア「それが分かる人と分からぬ人がいるのだよ。だからオールドタイプは殲滅するのだ」

(中略)

セイラ「兄さん!あなたは何を考えているの?」
シャア「父の仇を討つ」
セイラ「嘘でしょ兄さん!兄さんは一人で何かをやろうとしてるようだけど、ニュータイプ1人の独善的な世づくりをすることはいけないわ!」
シャア「私はそんなに自惚れていない。ニュータイプがニュータイプとして生まれ出る道を作りたいだけだ」


シャアの目的は「ニュータイプ(エスパー)がニュータイプ(新人類)として生まれ出る道」を作ることであり、そのための手段として「オールドタイプ(旧人類)は殲滅する」という。

オールドタイプとは、ニュータイプを戦争の道具として利用しようとする人々、すなわち地球連邦政府およびジオン公国のことであり、それを打倒すること(父の仇を討つこと)は、もはや目的ではなく手段になっていた。


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さて、実戦に投入されたララァは、戦場でアムロとの邂逅を果たす。お互いに優れたニュータイプである彼らは、戦闘中の一瞬にすぎない時間のなかで会話を交わした。

ララァ「あなたには力がありすぎるのよ。あなたを倒さねばシャアが死ぬ」
アムロ「シャア?それが」
ララァ「あなたの来るのが遅すぎたのよ」
アムロ「遅すぎた?」
ララァ「なぜ?あなたは今になって現れたの?」

(中略)

アムロ「ではこの僕たちの出会いは何なんだ?」
ララァ「ああああ。なぜなの?なぜ遅れて私はあなたに出会ったのかしら?」
アムロ「運命だとしたらひどいもんだよな。残酷だよな」

(中略)

ララァ「出会えば分かりあえるのに。なぜこういうふうにしか会えないのかしら。あなたは私にとって遅すぎて」
アムロ「僕にとってあなたは突然すぎたんだ。人同士ってこんなものなんだよな」


ララァはアムロを求め、アムロはそれに応えた。シャアは割って入ろうとするが、アムロの反撃によって追い詰められてしまう。

シャアが殺されそうになったその刹那、ララァはシャアを庇って死ぬ。ララァはアムロの一撃によって殺されてしまうのだ。

こうして、シャアはララァを愛し、ララァはアムロを愛し、それでもシャアを庇って死んだ。もちろん、シャアとアムロは激しく対立する。ア・バオア・クーでの会話を抜き出してみよう。

アムロ「貴様がララァを戦いに引き込んだ」
シャア「それが許せんと言うのなら間違いだ。アムロくん」
アムロ「な、なに」
シャア「戦争がなければララァのニュータイプへの目覚めはなかった」
アムロ「それは理屈だ」
シャア「しかし、正しいものの見方だ」
アムロ「それ以上近づくと撃つぞ」
シャア「君は自分がいかに危険な人間か分かっていない。素直にニュータイプの在り様を示し過ぎた」
アムロ「だから何だというんだ」
シャア「人は流れに乗ればいい。だから私は君を殺す」


なるほど、シャアにとってアムロは「危険な人間」である。「ニュータイプがニュータイプとして生まれ出る道」を作るために「オールドタイプは殲滅する」というシャアにとって、オールドタイプ(地球連邦政府)の味方をするニュータイプ(アムロ)は「危険な人間」なのである。

セイラ「兄さん!やめてください!アムロに恨みがあるわけではないでしょう」
シャア「ララァを殺された」
セイラ「それはお互いさまよ」
シャア「なら、同志になれ。そうすればララァも喜ぶ」
アムロ「正気か」
セイラ「兄さん」
シャア「貴様を野放しにはできんのだ」


このとき、シャアはアムロの能力を管理して利用しようと考えている。「ニュータイプがニュータイプとして生まれ出る道」を作るために「同志になれ」というのである。もちろん、アムロはシャアを拒絶し、彼らは決別することになった。

「この日、宇宙世紀0080、この戦いの後、地球連邦政府とジオン共和国の間に終戦協定が結ばれた」

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-92.html

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【エトジュン】『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を見る

   ↑  2015/05/01 (金)  カテゴリー: エトジュン

人類が初めて経験した大規模な宇宙空間での戦争が、地球連邦政府とジオン公国のものだった。[…] あれから10年弱、宇宙世紀0087、地球に住む人々とスペースコロニーに住む人々との確執はいまだくすぶり、人々の魂もまた地球の重力から解放されていなかった」


地球に住む人々(アースノイド)は「ティターンズ」を結成し、スペースコロニーに住む人々(スペースノイド)は「エゥーゴ」を結成した。

また、地球連邦政府に敗れたジオン公国の残党が小惑星「アクシズ」に集結し、地球圏には3つの勢力が存在することになった。

このとき、シャアはアクシズに参加していたが、やがてクワトロ・バジーナを名乗り、エゥーゴに参加する。シャアの目的は、アムロと再会することにあった。

シャア「宇宙に上がる気にはなれないのか」
アムロ「あの無重力地帯の感覚は怖い」
シャア「ララァと会うのが怖いのだろう。宇宙に上がったら、また会ってしまうのではないかと怖がっている」
アムロ「いや」
シャア「生きている間に、生きている人間がしなければならないことがある。それを行うことが、死んだ者への手向けだ」
アムロ「しゃべるな」


「生きている間に、生きている人間がしなければならないこと」とは「ニュータイプがニュータイプとして生まれ出る道」を作ることだろう。シャアはアムロに「同志になれ」というのである。

ところで、シャアはエゥーゴの次期指導者として期待されていたが、これを拒否する。なぜなら、エゥーゴの指導者になることは、スペースノイドの指導者になることを意味するからだ。

シャアは「ニュータイプがニュータイプとして生まれ出る道」を作るために「オールドタイプは殲滅する」のであり、アースノイドとスペースノイドを区別しないのである。

また、シャアの父ジオンは「スペースノイド=ニュータイプ」という思想を唱えたが、デギンによって「アースノイド=オールドタイプ」という思想に書き換えられ、ジオン公国の独立戦争に利用されてしまった。

シャア「宇宙移民者の独立主権を唱えた父は宇宙の民をニュータイプのエリートだとしたところにデギンのつけ込む隙があった。宇宙移民者はエリートであるから地球に従う必要がないという論法にすり替えられたわけだ」


なるほど、シャアにとって「スペースノイド=ニュータイプ」という思想は危険であり、また「アースノイド=オールドタイプ」という思想は悪質なのである。

ところが、宇宙世紀0093、シャアは地球に対し、隕石落としを敢行する。アムロとの会話を抜き出してみよう。

アムロ「なんでこんな物を地球に落とす。これでは地球が寒くなって人が住めなくなる。核の冬が来るぞ」
シャア「地球に住む者は自分たちのことしか考えていない。だから抹殺すると宣言した」
アムロ「人が人に罰を与えるなどと」
シャア「私、シャア・アズナブルが粛清しようというのだ、アムロ」
アムロ「エゴだよ、それは!」
シャア「地球が持たん時が来ているのだ」


シャアは「オールドタイプは殲滅する」といい「アースノイドは粛清する」という。これは「アースノイド=オールドタイプ」という悪質な思想だが、シャアは変節したのだろうか。

アムロ「シャアは俺たちと一緒に反連邦政府の連中と戦ったが、あれで地球に残っている連中の実態がわかって、本当に嫌気がさしたんだぜ。それで、すべての決着をつける気になったんだよ」


なるほど、シャアはアースノイドに絶望し、変節したのである。こうして、シャアはアースノイドを粛清するため、地球に「アクシズ」を落下させる。

ナナイ「アクシズを地球にぶつけるだけで、地球は核の冬と同じ規模の被害を受けます。それは、どんな独裁者でもやったことがない悪行ですよ。それでいいのですか。シャア大佐」
シャア「いまさら説教はないぞ、ナナイ。私は、宇宙に出た人類の革新を信じている。しかし、人類全体をニュータイプにするためには、誰かが人類の業を背負わなければならない」


シャアは「宇宙に出た人類の革新を信じている」というが、これは明らかに「スペースノイド=ニュータイプ」という思想である。


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ところで、シャアの作戦を阻止するため、地球連邦軍のモビルスーツ隊が出撃した。なかでも、アムロの「ν(ニュー)ガンダム」は「アクシズ」に取り付き、これを押し返そうとした。

シャア「馬鹿なことはやめろ」
アムロ「やってみなければわからん」
シャア「正気か」
アムロ「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない」
シャア「アクシズの落下は始まっているんだぞ」
アムロ「νガンダムは伊達じゃない!」


もちろん、いくら「νガンダム」といえども、単体で隕石を押し返すことはできない。このとき「アクシズ」を押し返したのは「人の心の光」である。

ここでいう「人の心の光」とは、虹色に発光するフィールドのことである。ミノフスキー粒子には、虹色に発光し、格子状に整列する性質があるため、これを高濃度散布すれば「人の心の光」が生じるのである。

「νガンダム」には、パイロットの脳波を増幅し、ミノフスキー粒子に干渉できるようにする装置、すなわち「サイコ・フレーム」が搭載されており、これがオーバーロードすることで「人の心の光」が生じた。

シャア「そうか、しかし、このあたたかさを持った人間が地球さえ破壊するんだ。それを分かるんだよ、アムロ」
アムロ「分かってるよ。だから世界に人の心の光を見せなけりゃならないんだろ」


こうして、シャアの作戦は失敗に終わった。人類に絶望したシャアは、最後まで絶望しなかったアムロに敗北したのである。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-78.html

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【エトジュン】『新世紀エヴァンゲリオン』を見る

   ↑  2015/08/01 (土)  カテゴリー: エトジュン
今回は『新世紀エヴァンゲリオン(エヴァ)』を見ることにしよう。

ここでいう『エヴァ』とは、1995年のテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』と、1998年の映画『DEATH(TRUE)^2/Air/まごころを、君に』の総称である。

さて、『エヴァ』の世界では、2つの隕石、すなわち「白き月」と「黒き月」が地球に衝突し、前者からアダムが、後者からリリスが生まれた。

さらに、アダムからシトが、リリスからヒトが生まれ、地球には4つの生命体が存在することになった。

時に、西暦2015年。ヒトは「人類補完計画」を発動する。これは、全てのシトを殲滅し、アダム、リリス、ヒトの三位一体によって「神に等しき力」を手に入れる計画である。

まず、ヒトはリリスを「黒き月」(箱根町)に幽閉し、これをアダムと偽った。その目的は、アダムとの接触を図るシトを誘き出し、迎撃することにあった。

したがって、箱根町には「使徒迎撃専用要塞都市」すなわち「第3新東京市」が建設され、国連直属非公開組織「特務機関ネルフ」の本部が設置された。

さらに、ネルフは「汎用ヒト型決戦兵器人造人間エヴァンゲリオン(エヴァ)」を建造したが、これはアダムまたはリリスのクローン体にヒトの心を宿した兵器である。

たとえば、エヴァ弐号機は、アダムのクローン体に惣流・キョウコ・ツェッペリン(母)の心を宿した機体であり、そのパイロットとして惣流・アスカ・ラングレー(子)が選ばれている。

また、エヴァ初号機は、リリスのクローン体に碇ユイ(母)の心を宿した機体であり、そのパイロットとして碇シンジ(子)が選ばれている。

ただし、エヴァ零号機は単なるリリスのクローン体であり、そのパイロットとして綾波レイ(ヒトのクローン体にリリスの心を宿した少女)が選ばれている。

なるほど、エヴァに「乗る」ということは、母親または自分の体に「還る」ということであり、言い換えれば「シンクロする」ということなのである。

ちなみに、渚カヲルはヒトのクローン体にアダムの心を宿した少年であり、アダムのクローン体と自由にシンクロすることが出来る。


エヴァンゲリオン


さて、エヴァの実戦投入により、ヒトは全てのシトを殲滅した。このとき、碇ゲンドウ(父)はアダムとの融合を果たしており、アダム、リリス、ヒト(ゲンドウ)の三位一体が成立しようとしていた。

ところが、レイがゲンドウからアダムを奪い、リリスと融合してシンジの元に向かった。ここに、アダム、リリス、ヒト(シンジ)の三位一体が成立し、シンジは「神に等しき力」を手に入れることになった。

ところで、『エヴァ』の世界におけるヒトは、その「心のかたち」によって「人のかたち」に形成された存在である。したがって、シンジ(神)が他人の存在を否定したとき、ヒトは「心のかたち」を失って「人のかたち」を失った。

シンジ「これは……。何もない空間。何もない世界。僕の他には何もない世界。僕がよく分からなくなっていく。自分がなくなっていく感じ。僕という存在が消えていく」
ユ イ「ここには、あなたしかいないからよ」
シンジ「僕しかいないから?」
ユ イ「自分以外の存在がないと、あなたは自分のかたちが分からないから」
シンジ「自分のかたち?」
ミサト「そう。他のヒトのかたちを見ることで、自分のかたちを知っている」
アスカ「他のヒトとの壁を見ることで、自分のかたちをイメージしている」
レ イ「あなたは、他のヒトがいないと自分が見えないの」
シンジ「他のヒトがいるから、自分がいられるんじゃないか。一人は、どこまで行っても一人じゃないか。世界はみんな僕だけだ!」
ミサト「他人との違いを認識することで、自分をかたどっているのね」
レ イ「一番最初の他人は、母親」
アスカ「母親は、あなたとは違う人間なのよ」
シンジ「そう、僕は僕だ。ただ、他のヒトたちが僕の心のかたちを作っているのも確かなんだ!」
ミサト「そうよ。碇シンジ君」
アスカ「やっと分かったの?バカシンジ!」


それでは、シンジが他人の存在を否定したのはなぜだろうか。それは、自分の存在を否定されることに恐怖を感じたからである。

シンジ「でも、みんな僕が嫌いじゃないのかな?」
アスカ「あんたバカァ?あんたが一人でそう思い込んでるだけじゃないの」
シンジ「でも、僕は僕が嫌いなんだ」
レ イ「自分が嫌いな人は、他人を好きに、信頼するように、なれないわ」
シンジ「僕は卑怯で、臆病で、ずるくて、弱虫で」
ミサト「自分が分かれば、優しくできるでしょう」
シンジ「僕は僕が嫌いだ。でも、好きになれるかもしれない。僕はここにいてもいいのかもしれない。そうだ、僕は僕でしかない。僕は僕だ。僕でいたい。僕はここにいたい。僕はここにいてもいいんだ!」


こうして、シンジは自己肯定を獲得し、他人の存在を肯定するようになる。

シンジ「あそこでは、嫌なことしかなかった気がする。だから、きっと逃げ出してもよかったんだ。でも、逃げたところにもいいことはなかった。だって僕がいないもの。誰もいないのと同じだもの」
カヲル「再びATフィールドが、君や他人を傷つけてもいいのかい?」
シンジ「かまわない。でも、僕の心の中にいる君たちは何?」
レ イ「希望なのよ。ヒトは互いに分かり合えるかもしれないということの」
カヲル「好きだ、という言葉とともにね」
シンジ「だけど、それは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。僕を見捨てるんだ。でも、僕はもう一度会いたいと思った。そのときの気持ちは本当だと思うから」


なるほど、『エヴァ』とは、自己不信から他人の存在を否定したシンジが、自己肯定を獲得し、他人の存在を肯定する物語なのである。

ところで、自己肯定を獲得したシンジは、アスカに「気持ち悪い」といわれてしまう。シンジはアスカに否定されたのだろうか。

シンジ(アスカの首を絞める)
アスカ(シンジの頬を撫でる)
シンジ(嗚咽をもらして泣く)
アスカ「気持ち悪い」


なるほど、この「気持ち悪い」もシンジに対する肯定として受け取ることができる。

まず、シンジがアスカの首を絞めたのはなぜか。それは、他人の存在を肯定したものの、やはり自分の存在を否定されることに恐怖を感じたからである。

シンジはアスカの首を絞めることで再び他人の存在を否定するが、アスカはシンジの頬を撫でた。すなわち、アスカはシンジを肯定したのである。

シンジは嗚咽をもらして泣き始めるが、その内面では「でも、みんな僕が嫌いじゃないのかな?」という絶望と「あんたバカァ?あんたが一人でそう思い込んでるだけじゃないの」という希望がせめぎ合っている。

そして「自分が嫌いな人は、他人を好きに、信頼するように、なれないわ」という福音によって「僕はここにいてもいいんだ!」という自己肯定が再び導かれるのである。

それでは、シンジに対して放たれた「気持ち悪い」とは何だろうか。それは「やっと分かったの?バカシンジ!」であり、いわば祝福の言葉なのだ。

そこで「気持ち悪い」のは、自己不信から他人の存在を否定したシンジのことであり、自己肯定を獲得したシンジは肯定されたのだといえるだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-85.html

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【エトジュン】九鬼周造『「いき」の構造』を読む

   ↑  2015/09/06 (日)  カテゴリー: エトジュン
「Xとは何か」に答えることは出来ない。しかし、「何がXか」に答えることは出来る。前者は言葉を定義することであり、後者は言葉を分析することである。

さて、言葉を分析することについて、九鬼周造の『「いき」の構造』を紹介しよう。本書は「いき」とは何かに答えた本ではなく、何が「いき」かに答えた本である。言い換えれば、「いき」を定義した本ではなく、「いき」を分析した本である。


「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)


まず、九鬼は「『いき』を単に種概念として取扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する『本質直観』を索めてはならない。意味体験としての『いき』の理解は、具体的な、事実的な、特殊な『存在会得』でなければならない」(pp.19-20)という。

ここで、種概念と類概念の関係をベン図で表すと図1のようになり、論理的に表すと「種→類」となる。九鬼は「いき」を種概念としてではなく、類概念として捉えなければならないというが、それはすなわち「いき→A」(図2)という抽象的な本質Aを求めるのではなく、「A→いき」(図3)という具体的な存在Aを求めなければならないということである。

図1図2図3

また、九鬼は「我々はまず意識現象の名の下に成立する存在様態としての『いき』を会得し、ついで客観的表現を取った存在様態としての『いき』の理解に進まなければならぬ」(p.20)というが、今回は言葉を分析することに着目するので、意識現象としての「いき」だけを扱うことにしたい。

さて、九鬼は「『いき』の内包的構造と外延的構造とを均しく闡明することによって、我々は意識現象としての『いき』の存在を完全に会得することができる」(p.22)という。

これは「A→いき」(図3)におけるAの特徴(いきの内包)とAの範囲(いきの外延)を明らかにすることで、意識現象としての「いき」を捉えることができるということである。

まず、内包について、九鬼は「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」(p.32)が「いき」であると結論する。これをベン図で表すと図4のようになり、論理的に表すと「諦かつ意気地かつ媚態→いき」となる。

図4図5

ここで気になるのは、「A→いき」(図3)ではなく「AかつBかつC→いき」(図5)という結論になっていることだが、これについて九鬼は「すべての思索の必然的制約として、概念的分析によるのほかはなかった」(p.95)と反省している。

すなわち「『媚態』といい、『意気地』といい、『諦め』といい、これらの概念は『いき』の部分ではなくて契機に過ぎない」(p.97)のであり、これらの概念の集合としてしか「いき」を捉えることができないのである。

また、外延について、九鬼は「『いき』と『いき』に関係を有する他の諸意味との区別を考察して、外延的に『いき』の意味を明晰ならしめなければならない」(p.35)という。

具体的には「人性的一般性かつ対自的かつ有価値的→上品」、「同じく反価値的→下品」、「人性的一般性かつ対他的かつ積極的→派手」、「同じく消極的→地味」、「異性的特殊性かつ対自的かつ有価値的→意気」、「同じく反価値的→野暮」、「異性的特殊性かつ対他的かつ積極的→甘味」、「同じく消極的→渋味」という分析を行っている。

この分析によれば、たとえば「上品」と「意気」の区別を「人性的一般性」と「異性的特殊性」の対立として、あるいは「意気」と「野暮」の区別を「有価値的」と「無価値的」の対立として捉えることができる。

さらに、以上の対立構造を直六面体で表すと図6のようになる。九鬼によれば「この直六面体の図式的価値は、他の同系統の趣味がこの六面体の表面および内部の一定点に配置されうる可能性と函数的関係をもっている」(p.53)。

図6

たとえば「『さび』とは、O、上品、地味のつくる三角形と、P、意気、渋味のつくる三角形とを両端面に有する三角柱の名称である」(p.55)。

さて、九鬼によれば、内包的には「諦かつ意気地かつ媚態→いき」であり、外延的には「異性的特殊性かつ対自的かつ有価値的→意気」である。

いずれにせよ九鬼は「AかつBかつC→いき」(図5)という図式を用いることで、概念の集合として「いき」を捉えており、それが「いき」を分析するということなのである。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-90.html

2015/09/06 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】園子温『愛のむきだし』を見る

   ↑  2015/09/13 (日)  カテゴリー: エトジュン
今回は、園子温の『愛のむきだし』を見ることにしよう。


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さて、本作のテーマは「罪」と「愛」である。まずは「罪」について、新約聖書を引用しよう。

【ローマの信徒への手紙 第7章】

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。[…]このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」


なるほど、キリスト教は「肉」の問題を「罪」として捉えている。本作『愛のむきだし』は「勃起」を「罪」として捉えているが、やはり「肉」の問題を「罪」として捉えているのである。次に「愛」について、再び新約聖書を引用しよう。

【コリントの信徒への手紙1 第13章】

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。[…]それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」


ところで、これら2つのテーマはどのように結びつくのだろうか。筆者の考えでは、そこでヒントになるのが「演じるな」という裏テーマである。

たとえば、ユウ(主人公)は、罪深い息子を演じることで父親(神父)に愛されようとしたり、アネゴ・サソリを演じることでヨーコ(ヒロイン)に愛されようとしたりするが、いずれも失敗に終わる。

また、ユウと敵対するゼロ教会は、信者を「CAVE(空洞)、ACTOR(演者)、PROMPTER(黒子)」に分類するなど、演じることをモチーフにした新興宗教であるが、物語の終盤において解体されてしまう。

このように本作の裏テーマは「演じるな」ということであり、それは「肉を偽るな」ということである。そうして、ユウは「肉」の問題を「愛」として捉えるようになり、それを「むきだし」にすることで「愛すること」を実践するのである。

なるほど、本作『愛のむきだし』は「肉」の問題を「罪」として捉えていたが、それを「愛」として捉えるようになるのである。ユウは「愛を恥じるな」というが、それは「勃起を恥じるな」ということなのだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-89.html

2015/09/13 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】夏目漱石『こころ』を読む

   ↑  2015/09/20 (日)  カテゴリー: エトジュン
今回は、夏目漱石の『こころ』を読むことにしよう。

さて、主な登場人物は、私(主人公)、先生(遺書における私)、奥さん(遺書における御嬢さん)、そしてKである。

全体としては、上(先生と私)、中(両親と私)、下(先生の遺書)の三部構成であり、下が先生の遺書そのもの、上と中がそれを読んだ私による回想である。

本作といえば現代文の授業だが、筆者の教科書には、下35項の「Kは何時もに似合わない話を始めました」から下48項の「血潮を始めて見たのです」までが載っていたと思う。

当時の印象では、先生がKを裏切って御嬢さんを奪う物語だと思っていた。しかし、本当にそうだろうか。御嬢さんは「奪われた」のだろうか。

筆者が考えてみたいのは、御嬢さんは誰と結婚したかったのかという問題である。まずは、Kの自殺から数ヶ月後の場面を見てみよう。

【先生の記述】

「結婚した時御嬢さんが、――もう御嬢さんではありませんから、妻といいます。――妻が、何を思い出したのか、二人でKの墓参りをしようといい出しました。[…]妻は二人揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろうというのです。[…]妻は定めて私といっしょになった顛末を述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう。」(下51項)


なるほど、御嬢さんは先生とKの間に起こった悲劇を知らない。少なくとも御嬢さんには「奪われた」という感覚はないだろう。結婚生活についてはこう述べている。

【奥さん(御嬢さん)の発話】

「私は先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」(上17項)


奥さんは先生と結婚したことに喜びを感じているようだ。では、いつから先生に好意を向けるようになったのだろうか。奥さんがまだ御嬢さんだった頃に戻ってみよう。

【先生の記述】

「それのみならず私は御嬢さんの態度の少し前と変っているのに気が付きました。[…]御嬢さんがすべて私の方を先にして、Kを後廻しにするように見えたのです。[…]つまり御嬢さんは私だけに解るように、持前の親切を余分に私の方へ割り宛ててくれたのです。」(下32項)


もちろん、これだけでは御嬢さんの気持ちは分からない。しかし、以下の場面は決定的である。

【先生の記述】

「私はKに一体百人一首の歌を知っているのかと尋ねました。Kはよく知らないと答えました。私の言葉を聞いた御嬢さんは、大方Kを軽蔑するとでも取ったのでしょう。それから眼に立つようにKの加勢をし出しました。しまいには二人がほとんど組になって私に当るという有様になって来ました。」(下35項)


まず、御嬢さんがKに加勢したのはなぜか。それは先生に好意を向けていたからである。好きな相手をいじりたかったのだろう。

しかし、先生はKに嫉妬してしまう。先生は御嬢さんの好意を受け取ることができなかったのである。

ところで、現代文の教科書に載っている範囲は、この場面の数日後から始まる。先生はKの気持ちを知ることになるが、そのときにはすでに御嬢さんの気持ちは先生に向いていたのである。

したがって、御嬢さんは最初から先生と結婚したかったのだといえるだろう。それでは、先生が御嬢さんの好意を受け取れなかったのはなぜだろうか。

まず、自己不信に陥っている人間は相手の好意を受け取ることができない。「自分が相手の好意の対象である」ということを信じられないからだ。

では、先生は自己不信に陥っていたのだろうか。先生のKに対する劣等感を見てみよう。

【先生の記述】

「容貌もKの方が女に好かれるように見えました。性質も私のようにこせこせしていないところが、異性には気に入るだろうと思われました。どこか間が抜けていて、それでどこかにしっかりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。」(下29項)


なるほど、先生はKに対する劣等感から相対的な自己不信に陥っていたといえるだろう。先生は自己不信のために御嬢さんの好意を受け取ることができなかったのである。

さらに、Kを裏切った先生は、絶対的な自己不信に陥ってしまう。

【先生の発話】

「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。」(上14項)


これは「自分が相手の好意の対象である」ということを信じられないから、相手の好意も信じられないということだ。

したがって、先生は結婚した後も奥さん(御嬢さん)の好意を受け取ることができなかった。ここで重要なのは、先生が奥さんの好意を理解していたことである。

【先生の発話】

「妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」(上10項)


なるほど、先生は奥さんの好意を理解していたが、受け取ることができなかったのである。その歯痒さが「であるべきはず」という不自然な言い回しに現れているのだろう。

また、先生にとって「受け取れない」ことは「満足を与えられない」ことであり、うしろめたいことだった。

【先生の記述】

「自分自身さえ頼りにする事のできない私は、妻の顔を見て思わず涙ぐみました。そうして妻を不幸な女だと思いました。また不幸な女だと口へ出してもいいました。妻はなぜだと聞きます。妻には私の意味が解らないのです。私もそれを説明してやる事ができないのです。」(下54項)


先生が奥さんを「不幸な女」だと思ったのは、奥さんの好意を受け取ってやれなかったからである。

そして「説明してやる事ができない」のは、それが自己不信を告白することであり、奥さんの好意を拒否することになってしまうからだ。

先生は「受け取れない」ことをうしろめたく感じ、隠していたのである。

ところで、先生と私(主人公)は疑似的な恋愛関係にあった。もちろん、私の気持ちは「好意」というより「敬意」であるが、自己不信に陥っていた先生は私の敬意を受け取ることができなかった。

【私の記述】

「傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止せという警告を与えたのである。他の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。」(上4項)


また、先生にとって「受け取れない」ことは「満足を与えられない」ことであり、うしろめたいことだった。

【先生の発話】

「私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。」(上13項)


そうして、いったんは私の敬意を斥けるが、やがてそれを受け取ろうと決意する。

【先生の発話】

「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎる様だ。私は死ぬ前にたった一人でいいから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか」(上31項)


それでは、先生が私の敬意を受け取ろうとしたのはなぜだろうか。

先生は、奥さんとの恋愛において好意を受け取れず、私との擬似恋愛において敬意を受け取れなかった。また、先生にとって「受け取れない」ことは「満足を与えられない」ことであり、うしろめたいことだった。

なるほど、先生は「受け取ること(テイク)」が「与えること(ギブ)」になると考えていた。先生は「受け取ってあげること(テイクによるギブ)」ができなかったのである。

さて、筆者の考えでは「受け取ってあげること」は「愛すること」である。逆に言えば「受け取ってもらうこと」は「愛されること」だと考えている。これにしたがって以下の記述を見てみよう。

【私の記述】

「私は最初から先生には近づき難い不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。[…]人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、―――これが先生であった。」(上6項)


「手をひろげて抱き締める事(受け取ってあげること)」が「愛すること」だとすれば、先生は「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて愛することのできない人」ということになる。

先生は、このジレンマを乗り越えて私を愛そうとしたのではないだろうか。私の「どうしても近づかなければいられないという感じ」は、まさしく恋だ。先生は私の恋心を「受け取ってあげること」で私を愛そうとしたのである。

さて、小説『こころ』は受け取れない人間が受け取ろうとする物語だった。先生が受け取ろうとしたのは、相手の気持ち、すなわち「こころ」である。心を受け取ると書いて愛とするなら、先生は愛の実際家だといえるだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-87.html

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【エトジュン】ギブアンドテイク恋愛論

   ↑  2015/09/27 (日)  カテゴリー: エトジュン
1.序論

1-1.概念を分析すること

別記事:九鬼周造『「いき」の構造』を読む

1-2.概念を仮定すること

ところで、「AかつBかつC→いき」(図5)というとき、いきという概念はAかつBかつCという言説(概念の集合)を表現している。すなわち、概念は言説の表現形態なのである。

図5


本節では、言説が形成される過程を見ることで、その表現形態としての概念がいかに形成されるのかを明らかにしたい。

さて、言説はすべて仮説として始まる。では、仮説はどのように形成されるのだろうか。今回は、アブダクションと呼ばれる推論形式を参照しよう。

米盛裕二によれば、アブダクションとは、ある意外な事実Cを説明するために仮説Hを発案し、仮説Hと事実Cの間に「Hが真であれば、Cは当然の事柄であろう」といえる関係が成り立つならば、仮説Hは真らしいと考える推論の形式である。

つまり、仮説Hが述べている事実・法則・理論が真であれば、事実Cが起こるのは当然であろうと納得できるとき、仮説Hを採択するのである。

このように仮説は、ある事実を説明するために発案され、採択されることで形成されるのだといえるだろう。

では、仮説はどのように言説となるのだろうか。アブダクションを科学的探究の第一段階として定式化したパースは、そこで形成された仮説を検討する過程として、第二段階の演繹と第三段階の帰納を位置づけている。

演繹とは、ある仮説が真であるとして、その仮説から必然的にあるいは高い確率で導かれる経験的な(観察可能な)諸帰結を予測することであり、帰納とは、演繹によって予測された諸帰結を経験的事実に照らして検証することである。

このように、ある事実を説明するために仮説を形成し、そこから導かれる諸帰結を予測し、それを経験的事実に照らして検証することが科学的探究の過程だといえるだろう。そして、その過程を経て実証された仮説が言説となるのである。

さて、言説の表現形態としての概念も、ある事実を説明するために仮定されるものである。そして、その仮定された概念から諸帰結が導かれ、それが経験的に検証されることで、より実証的な概念が形成されるのだといえるだろう。

1-3.恋愛について

それでは「恋愛」を分析してみよう。それは「何が恋愛か」を問うことであり、概念の集合として「恋愛」を捉えることである。

まずは、2つの行為、すなわち「あたえること(ギブ)」と「うけとること(テイク)」の集合として恋愛を捉えてみよう。

筆者の考えでは、これらの行為は「あげること(ギブ)」と「もらうこと(テイク)」を使って整理することができる。

たとえば「あたえること(ギブ)」は「うけとってもらうこと(テイク)」であり、「うけとること(テイク)」は「うけとってあげること(ギブ)」である。

ここで気になるのは、ギブはテイクであり、テイクはギブであるというパラドックスが生じていることだが、このパラドックスこそが恋愛の性質なのではないだろうか。

本論考では、ギブによるテイクを「恋」、テイクによるギブを「愛」と仮定し、これらの概念の集合として「恋愛」を捉えることにしたい。

2.本論

2-1.愛のむきだし

本節では、映画『愛のむきだし』を紹介しよう。本作は、2つの行為、すなわち「こたえること(ギブ)」と「もとめること(テイク)」の集合として恋愛を捉えた作品である。

これら2つの行為を整理すると、「こたえること(ギブ)」は「もとめてもらうこと(テイク)」であり、「もとめること(テイク)」は「もとめてあげること(ギブ)」である。

したがって、ギブによるテイクを「恋」、テイクによるギブを「愛」とすれば、「こたえること」は「恋」、「もとめること」は「愛」となる。とりわけ本作は「もとめること」を「愛すること」として描いた作品だといえるだろう。

別記事:園子温『愛のむきだし』を見る

2-2.こころ

本節では、小説『こころ』を紹介しよう。本作は、2つの行為、すなわち「あたえること(ギブ)」と「うけとること(テイク)」の集合として恋愛を捉えた作品である。

これら2つの行為を整理すると、「あたえること(ギブ)」は「うけとってもらうこと(テイク)」であり、「うけとること(テイク)」は「うけとってあげること(ギブ)」である。

したがって、ギブによるテイクを「恋」、テイクによるギブを「愛」とすれば、「あたえること」は「恋」、「うけとること」は「愛」となる。とりわけ本作は「うけとること」を「愛すること」として描いた作品だといえるだろう。

別記事:夏目漱石『こころ』を読む

3.結論

筆者の考えでは、概念は着眼点である。たとえば、本論考では、ギブによるテイクを「恋」、テイクによるギブを「愛」と仮定し、これらの概念に着目することで映画や小説を語ってきた。なるほど、概念は着眼点であり、筆者は独自の概念(着眼点)を仮定することで、議論を展開してきたのである。

また、映画『愛のむきだし』は「もとめること」を描いた作品であり、小説『こころ』は「うけとること」を描いた作品である。これらの行為はテイクによるギブであり、筆者はそれを「愛」と呼ぶのである。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-91.html

2015/09/27 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |