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【エトジュン】失敗の本質

   ↑  2013/07/06 (土)  カテゴリー: レジメ
Microsoft Word - 失敗の本質

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【エトジュン】日本の戦後

   ↑  2013/07/06 (土)  カテゴリー: レジメ
Microsoft Word - 日本の戦後

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【エトジュン】東京裁判

   ↑  2015/07/25 (土)  カテゴリー: レジメ
東京裁判-001
東京裁判-002

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【エトジュン】List of Worthwhile Anime by Etojun

   ↑  2017/04/01 (土)  カテゴリー: レジメ
List of Worthwhile Anime by Etojun

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【エトジュン】プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

   ↑  2017/10/01 (日)  カテゴリー: レジメ
マックス・ウェーバー著、大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』1989年
→ Max Weber, Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus, 1920

第1章・問題

1. 信仰と社会の層分化


(二十世紀初頭のドイツでは)企業家や熟練労働者がプロテスタント的色彩を帯びている。(p.16)
十六世紀のドイツでも、プロテスタンティズムを信仰したのは、裕福な都市の人々だった。(p.17)
→これらの人々が、宗教改革を受け入れるべき素質を備えていたのはなぜだろうか。

この点については「宗教改革が人間生活に対する教会の支配を排除したのではなくて、むしろ従来とは別の形態による支配にかえただけだ」ということに留意しなければならない。(p.18)
→しかも、従来の形態による支配(カトリシズム)が、ほとんど形式的なものに過ぎなかったのに対し、新しい形態による支配(プロテスタンティズム)は、公的生活と私的生活の全体にわたって厄介な規律を要求するものだった。

経済的に発展した地方の人々が、プロテスタンティズムの専制的支配を受け入れたのは、いったいなぜだったのか。(p.19)

禁欲的であることと、営利活動に携わることには親和関係があるのではないか。(p.29)

2.資本主義の精神

「資本主義の精神」という名称が意味をもつような対象は「歴史的個体」でなければならない。(p.38)
→歴史的個体:歴史的現実における諸要素を、ある観点から概念的に組み合わせた複合体

資本主義の精神:歴史的概念(歴史的≒特殊的)
→「直近の類(最近類)+種差」によって定義することはできない。
→歴史的現実における諸要素を、ある観点から概念的に組み立てなければならない。

暫定的な例示:ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父)
→「自分の資本を増加させることを自己目的と考えるのが各人の義務だという思想」(p.43)
→「貨幣の獲得を人間に義務づけられた自己目的、すなわち『天職』とみるような見解」(p.83)
→これに違反することは、義務の不履行(罪)だとされている。
→エートス(倫理観)が表明されている。

この倫理の最高善は貨幣を獲得することであり、それは自己目的と考えられているために、個人の幸福(個人的な合理性)と対立して、非合理的なものとして立ち現れている。(p.47)

われわれの究明すべき点は、資本主義文化の構成要素となっている「天職(自己目的な義務としての職業)」の観念と、職業労働への献身(個人的には非合理的)が、どのように生まれたかという問題である。(p.94)

3.ルターの天職観念

職業(世俗的な義務)を意味する「ベルーフ」には、召命(宗教的な義務)の意味がこめられている。
→「ベルーフ」は、召命としての職業、すなわち「天職」のことである。(p.95)
→これは聖書の翻訳に由来しており、翻訳者(ルター)の精神に由来している。

新しい思想:職業は召命であり、その遂行こそが神に喜ばれる唯一の道である。(p.110)
→しかし、ルターは伝統主義(営利の排斥)を脱しなかった。(p.125)

「宗教改革はルッターの個人的な宗教的展開から切りはなしては考えられず、また、彼の人格から長きにわたって深い精神的影響をうけたとはいえ、彼の事業は、カルヴィニズムなくしては、とうてい外的な永続性をもちえなかっただろう」(p.129)

「われわれは、近代文化のもつ一定の特徴ある内容のうち、どれだけを歴史的原因として宗教改革の影響に帰属させることができるか、ということだけを問題とする」(p.135)

第2章・禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理

1.世俗内的禁欲の宗教的諸基盤


「われわれにとって重要なのは[…]宗教的信仰および宗教生活の実践のうちから生み出されて、個々人の生活態度に方向と基礎をあたえるような心理的起動力をば明らかにすること」である。(p.140)

カルヴァン派:予定説(ウェストミンスター信仰告白)(p.146)
→「神はその栄光を顕わさんとして、みずからの決断によりある人々[…]を永遠の生命に予定し、他の人々を永遠の死滅に予定し給うた」(第3章3節)

「この悲愴な非人間性をおびる教説が、その壮大な帰結に身をゆだねた世代の心に与えずにはおかなかった結果は、何よりもまず、個々人のかつてみない内面的孤独化の感情だった」(p.156)
→牧師も助けえない、聖礼典も助けえない、教会も助けえない、神さえも助けえない。
→世界の(救済のための)呪術からの解放(p.157)

※ひとつの謎:内面的孤独化と分業の両立
→隣人愛の結果である。隣人愛は、神の栄光に奉仕するためのものでなければならないから、神(自然法?)によって与えられた天職の遂行のうちに現れる。また、神は社会的な秩序の合理的な(合目的的な)構成を求めるから、分業こそが神の栄光を増すものと考えられた。 (p.166)

信徒の疑問:私はいったい選ばれているのか、どうしたら選びの確信が得られるのか。(p.172)
→勧告1.自分は選ばれているのだと考えるように義務づけること。(p.178)
→選びの確信にみちた「聖徒」が育成された。
→勧告2.確信を得るための方法として、職業労働を教えこむこと。(p.179)

勧告2の根拠:宗教的な特質(ルター派と対比して、救済についての教説に現れている)
→ルター派:神秘的合一(自己の魂のうちに神的なものが現実に入ってくるという感覚)
→カルヴァン派:選びの確信(神が自己のうちに働き、それが意識にのぼるという感覚)

「宗教的達人が自分の救われていることを確信しうるかたちは、自分を神の力の容器と感じるか、あるいはその道具と感じるか、その何れかである。前者(ルター派)の場合には彼の宗教生活は神秘的な感情の培養に傾き、後者(カルヴァン派)の場合には禁欲的な行為に傾く」(p.183)

「『聖徒』たちの生活はひたすら救いの至福という超越的な目標に向けられた。が、また、まさしくそのために現世の生活は、地上で神の栄光を増し加えるという観点によってもっぱら支配され、徹底的に合理化されることになった」(p.197)
→このような合理化は、カルヴァン派の信仰に禁欲的な性格を与えることになった。(p.198)

西洋的な禁欲は「自然の地位を克服し、人間を非合理的な衝動の力と現世および自然への依存から引き離して計画的意志の支配に服させ、彼の行為を不断の自己審査と倫理的意義の熟慮のもとにおくことを目的とする、そうした合理的生活態度の組織的に完成された方法」として、出来上がっていた。(p.201)

「こうして生活の聖化は、ほとんど事業経営という性格をさえもつものとなりえた。生活全体の徹底したキリスト教化は、カルヴィニズムが生活態度に押しつけたその方法意識の帰結だったのだ」(p.214)

ところで、カルヴァン派以外の禁欲的な運動は、禁欲の宗教的な動機という観点からは、カルヴィニズムの首尾一貫性を緩和したものとして現れてくる。(pp.219-285)

「どの教派においてもつねに、宗教上の『恩恵の地位』を[…]一つの身分と考え、この身分の保持は[…]『自然』のままの人間の生活様式とは明白に相違した独自な行状による確証、によってのみ保証されうるとした」(p.286)

「このことからして、個々人にとって、恩恵の地位を保持するために生活を方法的に統御し、そのなかに禁欲を浸透させようとする起動力が生まれてきた」(p.286)

「ところで、この禁欲的な生活のスタイルは、すでに見たとおり、神の意志に合わせて全存在を合理的に形成するということを意味した。[…]こうして、宗教的要求にもとづく聖徒たちの、『自然』のままの生活とは異なった特別の生活は[…]世俗とその秩序のただなかで行われることになった」(pp.286-287)

「このような、来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したものだったのだ」(pp.287)

2.禁欲と資本主義の精神

「プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力をあげて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺した」(p.342)

「その反面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った。利潤の追求を合法化したばかりでなく、それを[…]まさしく神の意志に添うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまったのだ」(p.342)

「そして、さきに述べた消費の圧殺とこうした営利の解放とを一つに結びつけてみるならば、その外面的結果はおのずから明らかとなる。すなわち、禁欲的節約強制による資本形成がそれだ。利得したものの消費的使用を阻止することは、まさしく、それの生産的利用を、つまりは投下資本としての使用を促さずにはいなかった」(p.344)

さて、こうした宗教運動が「経済への影響力を全面的に現わすにいたったのは、通例は純粋に宗教的な熱狂がすでに頂上をとおりすぎ、神の国を求める激情がしだいに醒めた職業道徳へと解体しはじめ、宗教的根幹が徐々に生命を失って功利的現世主義がこれに代わるようになったとき」である。(p.355)

「宗教的生命にみちていたあの十七世紀が功利的な次の時代に遺産として残したものは、何よりもまず、合法的な形式で行われるかぎりでの、貨幣利得に関するおそろしく正しい[…]良心にほかならなかった」(p.356)

「近代資本主義の精神の、いやそれのみでなく、近代文化の本質的構成要素の一つというべき、天職理念を土台とした合理的生活態度は[…]キリスト教的禁欲の精神から生まれ出たのだった」(p.363)

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2017/10/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |