無頼派メガネネットには教養を、リアルには感動を。あなたのリアルを書き換えるブロマガ、無頼派メガネをお届けします。 

このページの記事目次 (カテゴリー: レコメンド

【九森信造】『容疑者Xの献身』~石神は他人事じゃない~

   ↑  2013/07/10 (水)  カテゴリー: レコメンド
現在『真夏の方程式』が公開されているガリレオシリーズ劇場版の第一作。


容疑者Xの献身 スタンダード・エディション [DVD]



[あらすじ]

花岡靖子(松雪泰子)と娘・美里は、どこに引っ越しても疫病神のように現れ、暴力を振るう元夫・富樫を大喧嘩の末に殺してしまう。今後の成り行きを想像し呆然とする母子に救いの手を差し伸べたのは、隣人の天才数学者・石神(堤真一)だった。彼は自らの論理的思考によって二人に指示を出していく。


このあらすじを見ていただいてもわかるように、この映画の主演は、堤真一と松雪泰子の2人です。

ネット上や映画評論などでもこの2人の演技のうまさ、そして「落ちぶれた天才数学者の孤独」みたいなことで書かれています。

[堤真一が過去に演じた数学者と比較]

さて、堤真一が演じた数学者といえば、私は『やまとなでしこ』の中原欧介を思い出します。しかし、中原と石神は同じ数学者でありながら、取り巻く環境や人生そのものが全く違います。

2人の違いを端的に表すとしましょう。

・中原(やまとなでしこで堤真一が演じた数学者)

大学(慶応大学をモデルにした私立大学)卒業後、MITに留学ののち挫折。父親の死もあり、実家の魚屋を母と二人で切り盛りする。自分が魚屋で働いていることをコンプレックスに感じ、桜子(松嶋菜々子)に医者であると偽る。

・石神(容疑者Xの献身で堤真一が演じた数学者)

大学(京大を意識した旧帝大)を学部で卒業後、家族の面倒を見るために、教職の道へ。現在、アパートで独り暮らし。靖子を意識することで、自らの容姿にコンプレックスを抱く。


同じ月9のフジテレビのドラマですが、作品が違えば演じる役柄も全く違うということが分かるかと思います。

さて、堤真一が演じるこの2人の役柄の差はなんなんでしょうか。中原にはあって、石神にはないもの。それは「熱を持った人間関係」です。

石神の生活は至って単調なものです。彼のアパートには娯楽や趣味を彩るようなものが一切なく(登山ぐらいでしょうか)、人のにおいも感じられません。

また、湯川(福山雅治)が石神の学校に行った際、職場の先生は「午前休はよくとるんですよ」とまったく意に介さず、逆に少し迷惑そうに言い捨てます。

ある意味では、彼の周りには、記号としての人間しかおらず、「熱を持った人間関係」が存在していなかった。確かに、「熱を持った人間関係」を持たないことは煩わしさから解放してくれますが、同時に石神に対して、「生きている実感」を失わせていきます。

彼がある大きな決意をしようとした際に、隣に花岡親子が引っ越して来ました。彼女たちは、石神の人生で久しぶりに現れた「熱を持った人間」だったのです。

[熱を帯びない人生の無味乾燥さ]

確かに、石神の感情は極端に一方通行でした。彼は「雪山」に閉じこもっているのと同じです。

しかし、花岡親子と一定の距離を保ちながらも適度な接触を図っていくことで、生きるためのバランスを保っていたのでしょう。こう考えると、石神の取った冷酷かつ残虐な行動の意味もわかってきます。

石神にとって、花岡親子を失うことは人生の熱を奪われることと同じでした。そう、彼は花岡親子を守るため、そして、彼の人生の熱を守り、例え投獄されても、生きている実感を守り続けるために献身的な行動を行ったのです。

[煩わしさを排除するかまってちゃん達]

さて、このような石神の行動は「レアなケース」と観衆は割り切っていていいのでしょうか。

映画の公開当時は、2008年。ちょうど、リーマンショック前後で東日本大震災も起こっておらず、スマフォもツイッターもラインもこんなに普及していなかった。その頃は、きっと石神のような「孤独」を味わっている人々も多かったと思います。

その「孤独」は技術革新と共に、新たに生まれた「なめらかなつながり」のせいで、また人々の忘却の彼方へと追いやられたのでしょう。

しかし、それは追いやられただけでいつでも出てくるチャンスをうかがっています。ラインの既読制度などはまさにこの「孤独」を抑え込むためのシステムの抵抗ともいえるでしょう。

結局、WEBで新たなつながりを求めていく姿勢は、本来「熱を持った人間関係」が持つ煩わしさを排除して、「孤独」を誤魔化していることに相違ないのです。

[運命を共有するつながりを]

Webの容易なつながりで得られる熱を「偽熱」とでも呼びましょうか。石神の知った「熱」は「偽熱」とは大違いなんです。それ故に、花岡親子のために、彼は人生をかけた決断をします。「偽熱」のためにはそこまで出来やしません。

最後のシーン、松雪泰子演じる花岡靖子は、ある決断をします。その決断は、石神の価値観や人生観を大きく引っくり返すものでした。

いうなれば、彼女の「熱」が石神という「雪山」にまるで、春を告げる太陽のように差し込んだわけです。石神の涙は、彼自身のこころの「雪解け」だったのかもしれません。

いわゆるハッピーエンドなのかもしれませんが、それは同時に靖子と石神が運命共同体になり、煩わしさも共有することを選択したということです。

「偽熱」でつながった人々の関係は、運命を共有することはあり得ません。どこまでいっても人々は「孤独」でしかないのです。

願わくば、僕たちにもよく似た、日本中の石神たちに、「熱を持った人間」との縁があらんことを。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-5.html

2013/07/10 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】『選挙』~汗をかかない代償~

   ↑  2013/07/17 (水)  カテゴリー: レコメンド
さて、今週の日曜日(21日)は、いよいよ参議院選挙です。

もう期日前投票を済ませた方も多いかもしれませんが、今回は参院選に向けて議論されていることを、映画を通じて考えてみたいと思います。


選挙 [DVD]


【あらすじ】

2005年秋、東京で切手コイン商を営む「山さん」こと山内和彦は、市議会議員の補欠選挙に自民党公認候補として出馬することになった。政治は全くの素人である彼の選挙区は、縁もゆかりもない川崎市宮前区。「電柱にもおじぎ」を合言葉に、小泉首相(当時)や自民党大物議員、地元自民党応援団総出の過酷なドブ板選挙が始まった。



アフター郵政民営化総選挙

本作は、山内さんと東京大学で同級生だった想田和弘の初監督作品。余計なナレーションなどもなく、公開された当時は、国内よりも国外で非常に評価が高く、逆輸入的に国内でも評判が高まりました。

私もリアルタイムで大学の授業で見たことと、映画館に見に行ったことを覚えています。今ほど、SNSが隆盛を極めていなかった時代でもあちこちで議論を巻き起こしていました。

ただ、多くの議論が小泉郵政民営化解散を反映してのポピュリズム批判に繋がることが多かったように思います。私もそういう見方をしていた一人でした。

逆に言うと、それだけ、あの2005年9月11日の狂乱は凄かったということです。

しかし、この映画、一度見て味が無くなる「ガム映画」でなく、噛めば噛むほど味の出る「たくあん映画」なんだと、今回あらためて気づきました。


「ネット解禁」、「若者の政治参加」論点で一層輝く映画

今回の参院選では、政策論争が盛り上がらないため、マスメディアが別の論点を出しており、あたかも今回の選挙の目玉のように扱われていることがあります。

それは「若者の政治参加」という問題です。

ネットにおける選挙活動が容認された初めての国政選挙ということで、各方面でも話題になっています。

投票率の低迷という問題とともに、若年層の投票率が低迷していることが問題視されてきました。特に昨年の12月の自民党の圧勝以降、各メディアでも若者の投票率低下が問題であるという取り上げ方が増えてきました。

しかし、映画『選挙』を見ると、問題はもっと根深いところにあると感じざるを得ません。


「汗を流しているのは誰か」問題

私も何度か、地方自治体の選挙のお手伝いみたいなことをしたことがあるので、映画の雰囲気はよくわかります。

候補者本人が演説で駆けずり回ることなどは選挙運動のほんの一部でしかなく、ハガキに宛名を書く、封筒にチラシを折り込む、後援会に勧誘する、演説会の警備計画を作る、友達や親戚にお願いに回る…

まさに「ドブ板」と呼ばれるべき活動が候補者の選挙活動、ひいては当選を支えているわけです。

それでは、その「ドブ板選挙」の担い手は誰なのか。

その答えは候補者の後援会です。では、後援会には誰がいるのでしょうか。

映画内で代表的だったのは、ボランティアで、選挙の応援をお願いするチラシを封筒に封入している高齢の女性でした。彼女は駅前で貸しビル業を営んでいるらしいです。

おそらく、候補者の後援会でボランティアをできる人々は、ある程度の富裕層に限られてくるのでしょう。

政党自身も、安定的な収入がない以上はこういう「ボランティア」の方々がいなければ、成立しない。まして、マンパワーの提供はもちろん、場所や資金を提供する地元の有力者も必要なはずです。


汗を流した対価、汗を流さない代償

最近、若者の投票率低下が高齢者層への優遇を生んでいるといいますが、心情的にはそれだけではないと思います。

自分が、運よく議員になった時に、駆け出しのころからハガキの宛名書きから何から何まで手伝ってくれた高齢者と、ネットで見たような資料を持ってきて過激な要求を突き付ける若者のグループ。

よほど、後者が理路整然と正しいことを言わない限り、心情的には前者の意見を聞くでしょう。まぁ、選挙で選ばれただけの議員が聖徳太子のような聖賢君主であれば話は別でしょうが。

「バカバカしい選挙運動」と考えている若者も多いと思います。それは立候補者自体が一番心得ていること。だからこそ、「バカバカしい選挙運動」でともに汗を流した人に気持ちが移るのは人情でしょう。

まとめると、自由に使える時間も安定した(不労所得という意味での)収入がない若者が「投票行動」だけを起こすことに本当に意味があるのかということです。

確かに、若者が関わらなくても政治が回ってきたという実態はあると思いますし、そこに甘んじているという事実もあるでしょう。「選挙」における若者不在の状況はその異様な時代性を表しているとも言えるわけです。

ですが、投票率の上昇≒若者優遇政治へのシフトなどという簡単な帰結はあり得ません。汗を流さない代償は確実にあります。


汗を流すモチベーション

単純すぎる帰結かもしれませんが、若者の政治参加を促すには、結局のところ、「身近に感じること」が大事なんだと思います。

高校の同級生が立候補したとか、友達のお姉さんが議員になったとか。若者自身が「リアル」だと感じる世界から、若者と政治の世界を繋ぐ人や問題が起こらなければ、変わることは難しいでしょう。

結局、ネット上で選挙運動を展開しても、LINEをいじっているときに出てくる邪魔な広告と同じ扱いで、スルーされるだけです。

映画本編で山内さんが東大の同級生と語らうシーンで

「本当は有名人になってから立候補しようと思っていたんだよ。(中略)でも、2000票ぐらいで地元なら受かるから、地元をしっかり回れば受かるかなぁと。切手コイン商もやりながら区議会議員が器かなぁと思って」


後援会や組織を持たずに選挙に出ようとしていた山内さんが頼りにしていたのは、地元という「リアル」な繋がりだったのです。


投票行動以外の政治参加という道

かといって、私は無秩序に様々な候補が乱立することを望んでいるわけではありません。

というか、「政治参加」=「選挙・投票活動」という短絡的な発想が、日本の弱点であると思っています。

地元のコミュニティー活動や役員、清掃活動などに「積極的に参加」することも一つの政治参加であると思っています。そこで見えてきた問題点や課題に対処することを考え始めた時点で、人は一人のプレイヤーになれるのですから。

投票行動に価値を与えるとすれば、数字の上では1票でしかない自分の票に、どのような質・価値を与えるのか。


自分の一票に価値を与える

それは、ただ、選挙の日に「投票行って外食する」だけでなく、「日常から思っている問題や疑問を自分の一票に色づけしなさい」という当たり前のことを教育してこなかったからこそ、政治に対する偏った考え方が支配的になり、投票率の低迷ということに正面衝突しているのでしょう。

参議院選挙の投票がまだの方は、ぜひ『選挙』のDVDを見て、あなたの一票に「どういう価値を与えるか」を考えていただけたらと思います。

ここで、コマーシャル。
7月6日より公開された続編『選挙2』が話題になっています。

あの山さんの一人の戦い、非常に興味深いです。見に行きたいなー。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-22.html

2013/07/17 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】『バカンスの恋』~ここにいたことで輝くアイドル~

   ↑  2013/07/24 (水)  カテゴリー: レコメンド
みなさん覚えていますか?アイドル氷河期を

今でこそ、AKBを初め、ももクロ、アイドリング、パスポ、さくら学院、東京女子流など、あげればきりがないほどのアイドルが活躍しています。

しかし、ご存知の方も多いと思いますが、10年ほど前はアイドル氷河期と言われ、2005年のAKB結成やパフュームのブレイクが始まるまでは、アイドルはもうオワコン(終わったコンテンツ)とみなされていました。

その時代背景において、マイナー路線のアイドルなんて、日が当たるはずもなく、活動を休止していったグループが星の数ほどいました。

その一つがBON-BON-BLANCOです。「ラテンパーカッションができるアイドル」として、ミュージカル「アニー」で主役を務めたアンナをボーカルに迎えた5人グループでした。

そもそも、アイドルとはなんぞや

アイドルという言葉ほど、多くの人々が使っているにもかかわらず、定義があいまいで人によって左右されるものも珍しいと思います。

私自身の定義は以下の通りです。

アイドルの価値は「ここにいたこと」を体現することである。その時代、その場所でしか発揮できなかった輝きを最大限に表現する。ある意味では、最上級の刹那的な魅力を提供する人やグループがアイドルの定義である。


今回紹介するBON-BON-BLANCOの「バカンスの恋」は、楽曲としては当然ながら、このアイドルという文脈を用いることによって、最上級の輝きを発揮する楽曲なのです。


バカンスの恋


僕たちは知っている。彼女たちが「ここにいたこと」を

「バカンスの恋」は、多くの人が開放的になる夏にじれったい恋をしている女の子を歌っています。その内容からは、夏特有の「モラトリアム感」が感じ取られ、誰しもが持つ、夏の思い出とリンクするようになっています。

アンナの魅力はなんと言っても、伸びのあるハスキーな高音でした。過去形にしたことには意味があります。

「バカンスの恋」の発表後、アンナは喉に変調をきたしてしまい、次作となる「BonVoyage」では、少し抑え気味な歌い方になります。その後もライブなどで「バカンスの恋」をパフォーマンスする際は音程を下げていました。

何が言いたいかというと、あの「バカンスの恋」は、アンナ自身があの頃にしか歌えなかった歌を等身大で歌いきっており、文字どおり「ここにいたこと」を記録に残しているわけです。

特に、曲終盤のアンナの高音部分は、2003年の夏のアンナにしか出せなかった声で「バカンスの恋は永遠にプロローグ」と歌っています。

彼女たちのキャリアの中でも、セールスとしても、大きく取り上げられることのなかった作品ですが、BON-BON-BLANCOは「バカンスの恋」という作品で一つの世界観を示しているのです。

これぞ「アイドルにしかできない仕事」といわずして、何がアイドルでしょうか。

タマフルでの再評価とは別で輝く「アイドル」BON-BON-BLANCO

2008年には、宇多丸さんのウィークエンドシャッフルで「バカンスの恋」が高い評価を受けています。しかし、時代の波に乗れず、2009年に活動を休止することになりました。

確かに、楽曲も良く、パーカッションのパフォーマンスも年々上達していたグループだったので、メンバーの脱退などもありましたが、何らかの形で仕事が舞い込んでいたのかもしれません。

しかし、それはもう「バカンスの恋」を歌っていた「2003年の夏にいた」BON-BON-BLANCOではなくなっていたでしょう。

僕たちのBON-BON-BLANCOは、まだパケット定額制がないガラケーの時代に、Youtubeもなく、深夜見ていたスペースシャワーTVから流れる「バカンスの恋」のPVで見た彼女たちなのです。

そう、まさに2003年の夏の時点で、「ここにいたこと」を体現し、その後のキャリアやセールスで評価が左右されない作品を残した彼女たちは、私の定義する意味での真の「アイドル」なのです。

それでは聞いていただきましょう。BON-BON-BLANCOで「バカンスの恋」!

コマーシャル

さて、今年の夏もまた85人の女性たちが読書感想文を書くそうです。
ナツイチ、AKBキャンペーン。彼女たちのひと夏の輝きを刻むように。

無頼派メガネでは彼女たちの読書感想文に対しての感想やレビューを、7月31日から8月31日にかけて行っていきます。

誰が選ばれるかは、完全に無頼派メガネ任せです。お楽しみに!

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-25.html

2013/07/24 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】『ヘンダーランドの大冒険』~助っ人から当事者へ~

   ↑  2014/08/01 (金)  カテゴリー: レコメンド
本や映画、アニメ、ドラマ、演劇、世の中には溢れるほどの作品が存在しています。にも関わらず、どうして私たちは同じ作品を見返すのでしょうか。

小林秀雄は、読書することは「自己との対話」だといいました。私たちは、初めて作品を見た当時の自分と出会うために同じ作品を見返すのでしょう。

今回の評論は、幼き日の私と今日の私が邂逅して生まれたものです。

助っ人から当事者へ

今回紹介する「ヘンダーランドの大冒険」はクレヨンしんちゃんの劇場版4作目です。


映画 クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険 [DVD]


劇場で見た当時は、これまでの3部作とは違うシリアスな展開にどことなく違和感を覚えました。

あらためて比較してみると、戦う理由がこれまでとは違います。

1作目→「アクション戦士」として選ばれたから
2作目→秘宝を手に入れるための鍵として選ばれたから
3作目→漂着した時空警察に協力するため

いずれも、戦いに巻き込まれていくパターンでした。いうなれば「助っ人」だったのです。

それに対して、本作では野原家はトラブルの蚊帳の外にいました。そして、ヘンダーランドで敵と遭遇するのです。

さて、しんのすけは、トッテマという巻き人形の女の子に出会います。

トッテマは、背格好がしんのすけより少し大きいぐらい。設定としては、しんのすけよりも少し年上の女の子です。

しかし、人間ではないということでハンデを抱えていました。そこで、人間のしんのすけに対して、協力してほしいと頼みます。

これまでは、メインで戦うのはしんのすけではなく、他の誰かであり、それは大人でした。

3作品目のラスボス、ピエール・ジョコマンとの対決ではしんのすけが1対1で対峙していますが、戦ったのは大人に変身したしんのすけであり、5歳児のしんのすけではありませんでした。

トッテマは事情を説明し、協力を頼みますが、しんのすけは頑なに拒否します。直感的に自分がメインとなって戦うことの恐怖を感じたのでしょう。

園児レベルの戦い

しかし、今回は誰も守ってくれません。自分が立ち向かわなければならない戦いがやってきたのです。

そして、しんのすけは戦う決意をし、彼の戦いが始まります。

その目線で見ると、無理のある設定にも納得がいきます。アクション仮面やカンタムロボがどうしてあの大きさなのか。どうして最後の決戦があの内容だったのか。

しんのすけがルールを把握でき、メインとなる戦いでなければならなかったからです。

失うことの怖さ

クライマックス直前に父親のひろしが、母親のみさえにこう語ります。

「みさえ、今俺達の息子が少し大人になったところだ」

この一言が象徴していることは、本編を見ればお分かりになると思います。ネタバレしない程度に言えば、しんのすけ自身が、初めて誰かを失う悲しさを体感したのです。

本作では、失うことの悲しさを感じることが、大人になることとして描かれています。

「オラ、この勝負には絶対勝つぞ!!」

このキャッチコピーは、本作がしんのすけの戦いであることを象徴しています。

トラブルというのは、向こうからやってくるものです。誰かに戦ってもらうのもよいですが、自分が「当事者」となって戦うことも必要です。

その中で出会いや別れを繰り返し、一人の人物が出来上がっていくのです。

また、劇場版の5作目からは妹のひまわりが登場します。それ以降は、男の子としての役割だけではなく、兄としての役割がしんのすけに課せられます。

しんのすけは、4作目となるこの映画の中で出会いと別れを経験し、ようやく兄となる準備を整えたのかもしれません。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-64.html

2014/08/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】『就職戦線異状なし』~若者の群像劇と就職活動と~

   ↑  2015/02/22 (日)  カテゴリー: レコメンド
まだ、就職活動が就活と略されていなかった頃、「就職戦線」を冠した映画がありました。その名も『就職戦線異状なし』です。


ssi.png


フジテレビの全盛期

製作はフジテレビ。この頃のフジテレビは、今のお台場ではなく河田町にありました。フジテレビ製作の27時間テレビで流されるような昔のVTRによく登場します。

例えば、タモリ・たけし・さんまのBIG3による河田町駐車場での大騒動はあの頃のフジテレビを象徴する出来事だったといえるでしょう。土曜日の8時にはめちゃイケではなく、さんまやたけしのひょうきん族やウッチャンナンチャンのやるやらが放送され、「売れている芸人はみんなフジテレビにいる」といわれた時代でした。

もちろん、ドラマも全盛期でした。『就職戦線異状なし』が上映された1991年の1月に、「月曜の夜は女性が街から消える」というトレンドを生み出し、月曜日の9時という時間枠を「月9」ブランドにした『東京ラブストーリー』、4月からは同じ時間帯に『101回目のプロポーズ』と、名実ともに伝説的なドラマを生み出していた時期でもありました。

したがって、この頃のフジテレビが製作し、バブル期の就職活動の狂乱を描いた映画が豪華絢爛にならないはずがありません。

主演は、『東京ラブストーリー』で主演を務めた織田裕二、ヒロインは「高校教師」で一躍ブームした仙道敦子。今では緒方直人と結婚しています。和久井映見、的場浩司、羽田美智子、坂上忍といった、今でも一線で活躍する俳優陣。全員が早稲田大学生という設定で行われる就職戦線協奏曲です。

就職戦線に参戦

オールスター映画は、キャストを集めたことだけで満足してしまい、ただただその出演者の丁々発止だけで時間を費やしてしまうことがあります。

本作も脚本がしっかりしていたとまではいいませんが、就職戦線を通じて描きたかったことは伝わるのではないかと思います。それは「リアル」な学生生活と「バーチャル」な就職戦線です。

本編では、歩けば内定が取れる時代に、あえてマスコミや広告代理店という人気の職種に挑戦する学生を描いており、出てくる企業はメディア関係がほとんどです。権利関係や諸々の業界の力学もあってか、本編では学生が就職する企業に関しては、伏字が使われています。テレビA日やS潮社など。ただ、建物の外観などはオリジナルを用いていることから、大体察しはつきます。

その中で象徴的なのは、就職活動をする学生が「自分vs企業」という構図を作り出していることです。フジテレビの面接や電通の試験という言葉に表れるように、企業を人格化し、企業に立ち向かう自分をセルフプロデュースしていきます。

RPG(ローブプレイングゲーム)で例えるなら、リクルートスーツという「戦闘服」、就職情報誌や書類の書き方といった「装備」を持って、合同説明会や模擬面接といった「ダンジョン」で経験を積み、就職偏差値(映画本編で登場する指標)が低い「小ボス」から偏差値の高い「ラスボス」までを戦いぬくわけです。その中に、仲間との協力や裏切りもあるかもしれません。

不思議なことに、彼らは自分の設定した「ラスボス」の就職偏差値が高ければ高いほど、それだけで、自分自身がすごいものであるかのように勘違いしてしまうようです。よくよく考えてみれば、私が就活していたときにも似たような傾向がありました。

しかし、現実はそう甘くはありません。

就職戦線から撤退

就活の終わりは第一志望の企業からの内定、あるいはそれ以外からの内定、または就職浪人、進学といったさまざまなカタチがあるでしょう。

本編では就活という「自分vs企業」のある意味「バーチャル」な戦いに、学生たち自身がとても「リアル」な理由やきっかけで終止符を打っていくことになります。

自分が選ぶ

物語のクライマックスに、こんな台詞があります。

「君が働きたい会社を選ぶんだよ」


現代にも共通していえることかもしれませんが、就職活動において、学生は「企業に選んでもらう」という気持ちが強いように見えます。

そのために、相手に評価される自分を作り上げ、表現し、毎回の面接後の連絡を震えて待たなければなりません。違う業種を受ける際は、また、別の自分を作り出さなければいけない。そんなことばかりしているから、3年も経たないうちに辞めてしまう若者も増えたのではないでしょうか。

時代を映す鏡

この作品のよさは、就職活動を学生群像劇として切り取ったこと以外にもあります。1991年の時代を生きる若者のアイテムや言葉、時代背景などを贅沢に取り入れています。

最近でいえば「モテキ」に取り込まれていますが、若者の周辺は絶えず変化しており、常に時代を映す鏡です。一種の記録映画としての性格を、そのエンターテイメント性の中に多分に含んでいる点と、あの日の学生気分を楽しめるという点で、この映画は1粒で2度美味しい映画というわけです。

「企業に選ばれることが戦いの勝利」という就職戦線の大前提は今もさほど変わっていないのではないでしょうか。25年前のバブルの頃の狂乱と大前提が変わっていないということは、失われた20年のあいだ、就職活動は根本のところで何も変わってこなかったということでしょう。

この映画を1つの羅針盤として「企業に選ばれる就職戦線」から離脱する勇気を持つのも1つかも知れません。そういったこともエンターテイメントとして示唆してくれる作品、オススメです。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-77.html

2015/02/22 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |