無頼派メガネネットには教養を、リアルには感動を。あなたのリアルを書き換えるブロマガ、無頼派メガネをお届けします。 

このページの記事目次 ( ← 2013年12月 → )

【九森信造】2013年は「っぽい」の年:SPECと食品偽装とさしこと

   ↑  2013/12/25 (水)  カテゴリー: 九森信造
SPEC劇場版、ついに完結しましたね。といっても、ドタバタしていたので、ひと月遅れで映画館に足を運びました。


spec.png


さて、SPEC論は別の段に譲るとして、2013年はどんな年だったかと問われたとき、私は「っぽい」の年だったと答えます。

ホテルで高級「っぽい」料理を食べる時間消費

今年、世間を騒がせた事件として、有名ホテルの食品偽装が挙げられます。一度騒動になると「このチャンスに」といわんばかりに、色々な偽装や認識不足が取り上げられました。

ですが、根本的には、この「にせもの」の材料で作られた料理に舌鼓を打って「これが○○ホテルのディナーか」と喜んでいたお客さんが多く存在していたはずです。

そういう意味で、多くの人々は料理の「味」ではなく、ホテルで出されている高級「っぽさ」にお金を払い、満足していたというわけです。

おしゃれかつ豪勢「っぽい」SPEC

豪勢なキャスト、CG、話題性、メディアミックスによる大々的な取り上げ方……。日テレにおける20世紀少年、フジにおける探偵ガリレオ、それがTBSのSPECだったといえるでしょう。

SPECの最大の魅力は、2000年代~東日本大震災以後「っぽさ」が詰め込まれていることです。私たちは映画そのものよりも、その「っぽさ」にほくそ笑み、語ったりするために、映画を見に行っているのでしょう。

指原「っぽい」が浸透したAKB

AKBの恋愛スキャンダルに対する特殊性は、皆さんご存知の通りだと思います。2012年6月の時点で、彼女はファンの男性との不適切な(クリントンを思い出すなぁ)写真を週刊文春に掲載され、HKTへの左遷が決まります。

恋愛スキャンダルで活動休止に追い込まれたメンバーもいたことから、指原さんの処遇にはいろいろと意見が上がりました。

しかし、その1年後、彼女はAKBの頂点に立っていたのです。

前田敦子や大島優子、篠田麻里子、板野友美のような1期生は「AKBとは何か」を体現していたと思います。しかし、指原さんは何かを体現しているのでしょうか。

辛辣な表現かもしれませんが「何でもやる!」という姿勢は逆に、少しカワイイ芸人といったカテゴリーに陥っていたような気がします。

結局、私たちは指原さんに「本格」を求めることはないのです。前田敦子がAKB卒業後、映画女優として開花しているように、AKBをやめなければ上れない階段もあるでしょう。

「っぽい」と「本格」のあいだ

2013年は「っぽい」で満足していた人々が「っぽい」と「本格」のあいだで揺れ動いていた年と言えるかもしれません。来年はどの道を選ぶのか。それはみなさんの選択です。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-49.html

2013/12/25 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『千と千尋の神隠し』(自己と他者の話)

   ↑  2013/12/08 (日)  カテゴリー: エトジュン
今回は「自己」と「他者」に着目して『千と千尋の神隠し(千尋)』を見ることにしよう。


千と千尋の神隠し [DVD]


まずは、オリエンタリズムの作品、すなわち「自己を規定するための他者」を描いた作品を見ることにしたい。

リンダ・ノックリンによれば、オリエンタリズムに典型的な主題として、裸の女性に対する所有幻想があるという。

たとえば、ジャン=レオン・ジェロームは、裸の力ない女性と着衣の力強い男性を様々な設定のなかに描いた。ここでは「奴隷市場」を参照しよう。


gerome.png


「(奴隷として描かれた)彼女たちは、どこか遠くで自分たちの意思に反して捉えられた無垢の女性として描かれており、その裸体は、非難ではなくむしろ同情される対象となっている。彼女たちはまた、誘惑的な肉体をおおうよりはむしろ、目をそらすという迎合的な態度をとっている。」(ノックリン)


ジェロームの絵画は、作品を鑑賞しながら、女性を鑑賞できるようになっている。女性の裸体は、作品を鑑賞するうえでは同情の対象となり、女性を鑑賞するうえでは欲情の対象となるのだ。

「(ジェロームの様式は)同時代のほとんどの観者に、穏健な『客観性』を通して、彼の話の中における登場人物たちが、論争の余地のない『他者であること』を保証することによって、主題を正当化したのだった。」(ノックリン)


ジェロームの絵画は、観客にとっての「他者」を描いている。観客は、女性に欲情する「他者」を眺めながら、女性に同情することで「自己」の正当性を担保し、それから女性に欲情することが出来るのだ。

それでは『千尋』を見ることにするが、本作の舞台となる「油屋」には売春宿のモチーフが用いられている。また、千尋は「湯女」として働くことになるが、これは売春婦のことである。

その裏付けとして、宮崎駿の発言を参照しよう。

「いまの世界として描くには何がいちばんふさわしいかといえば、それは風俗営業だと思うんですよ。日本はすべて風俗営業みたいな社会になってるじゃないですか。」(日本版プレミア2001年9月号)


もちろん、これは作者の意図であり、作品がこの通りに解釈されなければならないということはない。映画とはテクスト(解釈の対象)であり、観客が自由に解釈するものだからである。

とはいえ、今回は作者の意図を踏まえながら作品を解釈することにしよう。

まず、千尋が売春婦であるとすれば、それを買うのは「油屋」の客、つまり「やおよろずの神々」ということになる。なかでも特徴的なのは、千尋を追いかけまわすカオナシだ。

カオナシは、黒い影にお面をつけた見た目で、無表情かつ得体の知れない存在である。そして言葉をもたないため、手から砂金を出すなどして千尋の気を引こうとした。カオナシは、まさに千尋を買おうとする客なのである。

では、売春宿を舞台にした『千尋』において、千尋を買おうとする客がカオナシなのはなぜだろうか。

先にも述べたように、カオナシとは「得体の知れない存在」であり、観客にとっては「他者」ということになるだろう。

観客は、千尋に欲情する「他者(カオナシ)」を眺めながら、千尋に同情することで「自己」の正当性を担保し、それから千尋に欲情することが出来るのだ。

それでは「自己」の正当性を担保するために「他者(カオナシ)」を必要とするのは誰だろうか。この問題提起に答えるのは困難だが、それを宮崎駿とする解答は最も有力なのではないだろうか。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-41.html

2013/12/08 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『もののけ姫』(自然と体現の話)

   ↑  2013/12/01 (日)  カテゴリー: エトジュン
今回は「自然」と「体現」に着目して『もののけ姫』を見ることにしよう。


もののけ姫 [DVD]


「自然」と書いて「ジネン」と読むとき、それは「ありのままであること」を意味する。日本人の祖先は「ありのままであること」に神秘を見出し、それを体現する「ありのままであるもの」を信仰していた。

「ありのままであるもの」とは、山や川、そして動物など、人間の作為が加わっていないもののことであり、今でいう「シゼン」のことである。

実は「自然」と書いて「シゼン」と読むとき、それは「突然」ということを意味していた。それが「ありのままであるもの」を意味するようになったのは、英語の「nature」の訳語として当てられたためである。

逆に言えば、かつての日本語には「nature」にあたる語、すなわち「ありのままであるもの」を意味する語がなかったということだ。

なるほど、日本人の祖先は「ありのままであるもの」を信仰していたが、それを「シゼン」と呼んでいたわけではないのである。

しかし、今回は便宜上「ありのままであるもの」を「シゼン」と呼ぶことにしたい。日本人の祖先は「シゼン」を信仰していたのである。

ところで、彼らにとっての「ジネン(ありのままであること)」とは、一体どういうことだろうか。結論から言えば、それは「矛盾していること」である。

「私たちも夏の暑さにはうんざりさせられるが、その暑さが作物を育てる。冬の大雪は大変でも、大雪が降る地域では杉がよく育ち、山菜も豊富である。こういう風土に生きた人々は、合理的な精神をもつことより、矛盾とつき合い、矛盾と折り合いをつける能力を高めた。」(内山節)


彼らにしてみれば、矛盾こそが「ジネン」なのであり、それを体現するのが「シゼン」なのである。

「山も、滝も、岩も、ジネンの世界がみせた姿なのである。だからこの思想はすべてのものに精霊が宿るというより、ジネンの世界がさまざまなかたちで現れているからそこに手を合わせるのであって、精霊信仰とはちょっと違う。」(内山節)


それでは、以上を踏まえて『もののけ姫』を見ることにしよう。


もののけ姫


図は、シシ神が歩くシーンだ。シシ神が一歩踏めば、そこから新しい生命が息吹をあげ、足を離せばたちまち枯れてしまう。これを解釈すれば、シシ神は生と死をあわせ持った存在だといえるだろう。

登場人物の台詞でいえば「シシ神は死にはしないよ。命そのものだから。生と死とふたつとも持っているもの」ということである。

そして、ここに日本人の祖先の信仰を見出すことができる。シシ神は、生と死という正反対の、あるいは矛盾する概念を体現する存在なのだ。

登場人物たちは「ジネン(矛盾していること)」に神秘を見出し、それを体現する「シゼン(シシ神)」を信仰しているのである。

このように『もののけ姫』は、日本人の祖先の信仰を描いた作品だといえるだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-47.html

2013/12/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |