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【九森信造】あなたは「上手に思い出すこと」ができますか?

   ↑  2014/10/01 (水)  カテゴリー: 九森信造
少し前に亡くなった、作家の井上ひさしの言葉に「つるつる言葉」というものがありました。詳細は忘れましたが、凹凸のある物体の表面が、使い古されて摩耗し「つるつる」になってしまうように、人々が口々に使うことによって、実感がともなわなくなってしまった言葉のことを指します。

たしか東日本大震災の際に「つながり」や「きずな」という言葉が連呼される風潮を揶揄するために朝日新聞が使っていたのを覚えています。

「つるつる」化してしまう理由

「つるつる言葉」という言い方はしていませんが、小林秀雄は『学生との対話』の中で興味深い言葉を残しています。

「信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人のごとく知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない、そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。」


私なりに解釈すれば、例えば「つながり」という言葉を使うときに、自分の周囲や実体験に置き換えて話ができ、なおかつ一定の批判に耐えうる説明が可能か否か。つまり、自分の信じるレベルまで昇華できているかという問題です。

小林秀雄はこうも語ります。

「自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅を利かせるのです。」


自分流に信じていないから、ある意味では上っ面のイデオロギーで人々はカテゴライズされてしまうわけです。では、頑なに人々との交流を拒んでいればいいのかといえば、そうではありません。

「自分に都合のいいことだけを考えるのがインテリというものなのです。インテリには反省がないのです。反省がないということは、信ずる心、信ずる能力を失ったということなのです。」


独りよがりでいいはずはないのです。常に、周囲の意見に耳を傾け、自問自答を繰り返し、変えるべきこと、変えざるべきことの色分けをしていくことこそ、重要なのです。

知識と経験の二重奏

ここで、議論を進めるために、「知ること」によって深められるものは「知識」、「信ずること」で深まっていくものは「経験」と置き換えてみます。

皆さん、小学校でリットルやセンチメートルなどの単位を勉強したことを覚えているでしょうか。私は単位の勉強をした際、スーパーで見かけた牛乳パックに「1000ml」という表示を見て父親に「これって1リットルのこと?」と質問したことを覚えています。

しかし、以前、小学生に単位の勉強を教えているとき、牛乳パックに表記されている「1000ml」が何リットルかと尋ねると、小学生は答えに困っていました。コンビニやスーパーでほぼ毎日のように目にしておきながら、牛乳パックの1000mlが座学で学んだ単位の勉強と結びついていないのです。

座学で学んだことを「知識」とすれば、スーパーやコンビニで牛乳パックを見かけたことは「経験」となるでしょう。

読書をするときも、単語の「国語辞書的」な「知識」がなければ文意を掴むことができない一方で、作中で筆者の思い描いている光景や登場人物の心境などを想像するとき、今までの人生で得てきた「経験」をベースにしないとうまくいきません。

コミュニケーションの基盤になるべき共通の「経験」

近年では、世代を超えた交流が少なくなっていることが問題視されています。1つの問題としては、特に戦後における科学技術の急速な発展により、上の世代と下の世代の感じてきたことが全く違うがゆえに、共通の話題などが持てず、交流が減っているという考えです。また、若い世代のコミュニケーション能力不足に責任を転嫁されることもよくあります。

私は、コミュニケーションの基礎となるべき、世代間の共通の「経験」が圧倒的に不足しているのだと思います。では、共通の「経験」とは何かと問われれば、私の答えは伝統に則った行事、たとえば、町内会・地域行事の運営への参加だと思っています。

慣習になってしまった行事は消えていく

小林秀雄は伝統と慣習(習慣)の違いを次のように述べています。

「傳統と習慣とはよく似てをります。併し、この二つは異るのである。僕等が自覺せず、無意識なところで、習慣の力は最大なのでありますが、傳統は、努力と自覺とに待たねば決して復活するものではないのであります。」


近年では、町内会や地域コミュニティの弱体化が問題視されています。地域行事の参加者も運営者も高齢化し、動員力が落ちていると言われています。表面的には、娯楽が多様化し、旧来の行事に魅力が感じられなくなったのかもしれません。

しかし、小林の議論を援用すれば、違う視点が必要なのではないでしょうか。つまり、私たちがこれまでの伝統を「形骸化」させて、「習慣」にしてしまわないために、努力と自覚を持って引き継いでいかなければいかないのではないでしょうか。

このことを、行事や何らかの事業に関わる人々は意識しなければいけないと思います。では、具体的にどうすればよいのか。最後に小林秀雄の珠玉の言葉を引いて終わりましょう。

「歴史とは上手に思い出すことである。」


悠久の時間を越えて続く行事の運営に参加することこそ、「上手に思い出すこと」の一助になるのかもしれません。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-68.html

2014/10/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |