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【エトジュン】ギブアンドテイク恋愛論

   ↑  2015/09/27 (日)  カテゴリー: エトジュン
1.序論

1-1.概念を分析すること

別記事:九鬼周造『「いき」の構造』を読む

1-2.概念を仮定すること

ところで、「AかつBかつC→いき」(図5)というとき、いきという概念はAかつBかつCという言説(概念の集合)を表現している。すなわち、概念は言説の表現形態なのである。

図5


本節では、言説が形成される過程を見ることで、その表現形態としての概念がいかに形成されるのかを明らかにしたい。

さて、言説はすべて仮説として始まる。では、仮説はどのように形成されるのだろうか。今回は、アブダクションと呼ばれる推論形式を参照しよう。

米盛裕二によれば、アブダクションとは、ある意外な事実Cを説明するために仮説Hを発案し、仮説Hと事実Cの間に「Hが真であれば、Cは当然の事柄であろう」といえる関係が成り立つならば、仮説Hは真らしいと考える推論の形式である。

つまり、仮説Hが述べている事実・法則・理論が真であれば、事実Cが起こるのは当然であろうと納得できるとき、仮説Hを採択するのである。

このように仮説は、ある事実を説明するために発案され、採択されることで形成されるのだといえるだろう。

では、仮説はどのように言説となるのだろうか。アブダクションを科学的探究の第一段階として定式化したパースは、そこで形成された仮説を検討する過程として、第二段階の演繹と第三段階の帰納を位置づけている。

演繹とは、ある仮説が真であるとして、その仮説から必然的にあるいは高い確率で導かれる経験的な(観察可能な)諸帰結を予測することであり、帰納とは、演繹によって予測された諸帰結を経験的事実に照らして検証することである。

このように、ある事実を説明するために仮説を形成し、そこから導かれる諸帰結を予測し、それを経験的事実に照らして検証することが科学的探究の過程だといえるだろう。そして、その過程を経て実証された仮説が言説となるのである。

さて、言説の表現形態としての概念も、ある事実を説明するために仮定されるものである。そして、その仮定された概念から諸帰結が導かれ、それが経験的に検証されることで、より実証的な概念が形成されるのだといえるだろう。

1-3.恋愛について

それでは「恋愛」を分析してみよう。それは「何が恋愛か」を問うことであり、概念の集合として「恋愛」を捉えることである。

まずは、2つの行為、すなわち「あたえること(ギブ)」と「うけとること(テイク)」の集合として恋愛を捉えてみよう。

筆者の考えでは、これらの行為は「あげること(ギブ)」と「もらうこと(テイク)」を使って整理することができる。

たとえば「あたえること(ギブ)」は「うけとってもらうこと(テイク)」であり、「うけとること(テイク)」は「うけとってあげること(ギブ)」である。

ここで気になるのは、ギブはテイクであり、テイクはギブであるというパラドックスが生じていることだが、このパラドックスこそが恋愛の性質なのではないだろうか。

本論考では、ギブによるテイクを「恋」、テイクによるギブを「愛」と仮定し、これらの概念の集合として「恋愛」を捉えることにしたい。

2.本論

2-1.愛のむきだし

本節では、映画『愛のむきだし』を紹介しよう。本作は、2つの行為、すなわち「こたえること(ギブ)」と「もとめること(テイク)」の集合として恋愛を捉えた作品である。

これら2つの行為を整理すると、「こたえること(ギブ)」は「もとめてもらうこと(テイク)」であり、「もとめること(テイク)」は「もとめてあげること(ギブ)」である。

したがって、ギブによるテイクを「恋」、テイクによるギブを「愛」とすれば、「こたえること」は「恋」、「もとめること」は「愛」となる。とりわけ本作は「もとめること」を「愛すること」として描いた作品だといえるだろう。

別記事:園子温『愛のむきだし』を見る

2-2.こころ

本節では、小説『こころ』を紹介しよう。本作は、2つの行為、すなわち「あたえること(ギブ)」と「うけとること(テイク)」の集合として恋愛を捉えた作品である。

これら2つの行為を整理すると、「あたえること(ギブ)」は「うけとってもらうこと(テイク)」であり、「うけとること(テイク)」は「うけとってあげること(ギブ)」である。

したがって、ギブによるテイクを「恋」、テイクによるギブを「愛」とすれば、「あたえること」は「恋」、「うけとること」は「愛」となる。とりわけ本作は「うけとること」を「愛すること」として描いた作品だといえるだろう。

別記事:夏目漱石『こころ』を読む

3.結論

筆者の考えでは、概念は着眼点である。たとえば、本論考では、ギブによるテイクを「恋」、テイクによるギブを「愛」と仮定し、これらの概念に着目することで映画や小説を語ってきた。なるほど、概念は着眼点であり、筆者は独自の概念(着眼点)を仮定することで、議論を展開してきたのである。

また、映画『愛のむきだし』は「もとめること」を描いた作品であり、小説『こころ』は「うけとること」を描いた作品である。これらの行為はテイクによるギブであり、筆者はそれを「愛」と呼ぶのである。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-91.html

2015/09/27 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】夏目漱石『こころ』を読む

   ↑  2015/09/20 (日)  カテゴリー: エトジュン
今回は、夏目漱石の『こころ』を読むことにしよう。

さて、主な登場人物は、私(主人公)、先生(遺書における私)、奥さん(遺書における御嬢さん)、そしてKである。

全体としては、上(先生と私)、中(両親と私)、下(先生の遺書)の三部構成であり、下が先生の遺書そのもの、上と中がそれを読んだ私による回想である。

本作といえば現代文の授業だが、筆者の教科書には、下35項の「Kは何時もに似合わない話を始めました」から下48項の「血潮を始めて見たのです」までが載っていたと思う。

当時の印象では、先生がKを裏切って御嬢さんを奪う物語だと思っていた。しかし、本当にそうだろうか。御嬢さんは「奪われた」のだろうか。

筆者が考えてみたいのは、御嬢さんは誰と結婚したかったのかという問題である。まずは、Kの自殺から数ヶ月後の場面を見てみよう。

【先生の記述】

「結婚した時御嬢さんが、――もう御嬢さんではありませんから、妻といいます。――妻が、何を思い出したのか、二人でKの墓参りをしようといい出しました。[…]妻は二人揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろうというのです。[…]妻は定めて私といっしょになった顛末を述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう。」(下51項)


なるほど、御嬢さんは先生とKの間に起こった悲劇を知らない。少なくとも御嬢さんには「奪われた」という感覚はないだろう。結婚生活についてはこう述べている。

【奥さん(御嬢さん)の発話】

「私は先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」(上17項)


奥さんは先生と結婚したことに喜びを感じているようだ。では、いつから先生に好意を向けるようになったのだろうか。奥さんがまだ御嬢さんだった頃に戻ってみよう。

【先生の記述】

「それのみならず私は御嬢さんの態度の少し前と変っているのに気が付きました。[…]御嬢さんがすべて私の方を先にして、Kを後廻しにするように見えたのです。[…]つまり御嬢さんは私だけに解るように、持前の親切を余分に私の方へ割り宛ててくれたのです。」(下32項)


もちろん、これだけでは御嬢さんの気持ちは分からない。しかし、以下の場面は決定的である。

【先生の記述】

「私はKに一体百人一首の歌を知っているのかと尋ねました。Kはよく知らないと答えました。私の言葉を聞いた御嬢さんは、大方Kを軽蔑するとでも取ったのでしょう。それから眼に立つようにKの加勢をし出しました。しまいには二人がほとんど組になって私に当るという有様になって来ました。」(下35項)


まず、御嬢さんがKに加勢したのはなぜか。それは先生に好意を向けていたからである。好きな相手をいじりたかったのだろう。

しかし、先生はKに嫉妬してしまう。先生は御嬢さんの好意を受け取ることができなかったのである。

ところで、現代文の教科書に載っている範囲は、この場面の数日後から始まる。先生はKの気持ちを知ることになるが、そのときにはすでに御嬢さんの気持ちは先生に向いていたのである。

したがって、御嬢さんは最初から先生と結婚したかったのだといえるだろう。それでは、先生が御嬢さんの好意を受け取れなかったのはなぜだろうか。

まず、自己不信に陥っている人間は相手の好意を受け取ることができない。「自分が相手の好意の対象である」ということを信じられないからだ。

では、先生は自己不信に陥っていたのだろうか。先生のKに対する劣等感を見てみよう。

【先生の記述】

「容貌もKの方が女に好かれるように見えました。性質も私のようにこせこせしていないところが、異性には気に入るだろうと思われました。どこか間が抜けていて、それでどこかにしっかりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。」(下29項)


なるほど、先生はKに対する劣等感から相対的な自己不信に陥っていたといえるだろう。先生は自己不信のために御嬢さんの好意を受け取ることができなかったのである。

さらに、Kを裏切った先生は、絶対的な自己不信に陥ってしまう。

【先生の発話】

「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。」(上14項)


これは「自分が相手の好意の対象である」ということを信じられないから、相手の好意も信じられないということだ。

したがって、先生は結婚した後も奥さん(御嬢さん)の好意を受け取ることができなかった。ここで重要なのは、先生が奥さんの好意を理解していたことである。

【先生の発話】

「妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」(上10項)


なるほど、先生は奥さんの好意を理解していたが、受け取ることができなかったのである。その歯痒さが「であるべきはず」という不自然な言い回しに現れているのだろう。

また、先生にとって「受け取れない」ことは「満足を与えられない」ことであり、うしろめたいことだった。

【先生の記述】

「自分自身さえ頼りにする事のできない私は、妻の顔を見て思わず涙ぐみました。そうして妻を不幸な女だと思いました。また不幸な女だと口へ出してもいいました。妻はなぜだと聞きます。妻には私の意味が解らないのです。私もそれを説明してやる事ができないのです。」(下54項)


先生が奥さんを「不幸な女」だと思ったのは、奥さんの好意を受け取ってやれなかったからである。

そして「説明してやる事ができない」のは、それが自己不信を告白することであり、奥さんの好意を拒否することになってしまうからだ。

先生は「受け取れない」ことをうしろめたく感じ、隠していたのである。

ところで、先生と私(主人公)は疑似的な恋愛関係にあった。もちろん、私の気持ちは「好意」というより「敬意」であるが、自己不信に陥っていた先生は私の敬意を受け取ることができなかった。

【私の記述】

「傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止せという警告を与えたのである。他の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。」(上4項)


また、先生にとって「受け取れない」ことは「満足を与えられない」ことであり、うしろめたいことだった。

【先生の発話】

「私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。」(上13項)


そうして、いったんは私の敬意を斥けるが、やがてそれを受け取ろうと決意する。

【先生の発話】

「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎる様だ。私は死ぬ前にたった一人でいいから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか」(上31項)


それでは、先生が私の敬意を受け取ろうとしたのはなぜだろうか。

先生は、奥さんとの恋愛において好意を受け取れず、私との擬似恋愛において敬意を受け取れなかった。また、先生にとって「受け取れない」ことは「満足を与えられない」ことであり、うしろめたいことだった。

なるほど、先生は「受け取ること(テイク)」が「与えること(ギブ)」になると考えていた。先生は「受け取ってあげること(テイクによるギブ)」ができなかったのである。

さて、筆者の考えでは「受け取ってあげること」は「愛すること」である。逆に言えば「受け取ってもらうこと」は「愛されること」だと考えている。これにしたがって以下の記述を見てみよう。

【私の記述】

「私は最初から先生には近づき難い不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。[…]人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、―――これが先生であった。」(上6項)


「手をひろげて抱き締める事(受け取ってあげること)」が「愛すること」だとすれば、先生は「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて愛することのできない人」ということになる。

先生は、このジレンマを乗り越えて私を愛そうとしたのではないだろうか。私の「どうしても近づかなければいられないという感じ」は、まさしく恋だ。先生は私の恋心を「受け取ってあげること」で私を愛そうとしたのである。

さて、小説『こころ』は受け取れない人間が受け取ろうとする物語だった。先生が受け取ろうとしたのは、相手の気持ち、すなわち「こころ」である。心を受け取ると書いて愛とするなら、先生は愛の実際家だといえるだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-87.html

2015/09/20 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】園子温『愛のむきだし』を見る

   ↑  2015/09/13 (日)  カテゴリー: エトジュン
今回は、園子温の『愛のむきだし』を見ることにしよう。


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さて、本作のテーマは「罪」と「愛」である。まずは「罪」について、新約聖書を引用しよう。

【ローマの信徒への手紙 第7章】

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。[…]このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」


なるほど、キリスト教は「肉」の問題を「罪」として捉えている。本作『愛のむきだし』は「勃起」を「罪」として捉えているが、やはり「肉」の問題を「罪」として捉えているのである。次に「愛」について、再び新約聖書を引用しよう。

【コリントの信徒への手紙1 第13章】

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。[…]それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」


ところで、これら2つのテーマはどのように結びつくのだろうか。筆者の考えでは、そこでヒントになるのが「演じるな」という裏テーマである。

たとえば、ユウ(主人公)は、罪深い息子を演じることで父親(神父)に愛されようとしたり、アネゴ・サソリを演じることでヨーコ(ヒロイン)に愛されようとしたりするが、いずれも失敗に終わる。

また、ユウと敵対するゼロ教会は、信者を「CAVE(空洞)、ACTOR(演者)、PROMPTER(黒子)」に分類するなど、演じることをモチーフにした新興宗教であるが、物語の終盤において解体されてしまう。

このように本作の裏テーマは「演じるな」ということであり、それは「肉を偽るな」ということである。そうして、ユウは「肉」の問題を「愛」として捉えるようになり、それを「むきだし」にすることで「愛すること」を実践するのである。

なるほど、本作『愛のむきだし』は「肉」の問題を「罪」として捉えていたが、それを「愛」として捉えるようになるのである。ユウは「愛を恥じるな」というが、それは「勃起を恥じるな」ということなのだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-89.html

2015/09/13 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】九鬼周造『「いき」の構造』を読む

   ↑  2015/09/06 (日)  カテゴリー: エトジュン
「Xとは何か」に答えることは出来ない。しかし、「何がXか」に答えることは出来る。前者は言葉を定義することであり、後者は言葉を分析することである。

さて、言葉を分析することについて、九鬼周造の『「いき」の構造』を紹介しよう。本書は「いき」とは何かに答えた本ではなく、何が「いき」かに答えた本である。言い換えれば、「いき」を定義した本ではなく、「いき」を分析した本である。


「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)


まず、九鬼は「『いき』を単に種概念として取扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する『本質直観』を索めてはならない。意味体験としての『いき』の理解は、具体的な、事実的な、特殊な『存在会得』でなければならない」(pp.19-20)という。

ここで、種概念と類概念の関係をベン図で表すと図1のようになり、論理的に表すと「種→類」となる。九鬼は「いき」を種概念としてではなく、類概念として捉えなければならないというが、それはすなわち「いき→A」(図2)という抽象的な本質Aを求めるのではなく、「A→いき」(図3)という具体的な存在Aを求めなければならないということである。

図1図2図3

また、九鬼は「我々はまず意識現象の名の下に成立する存在様態としての『いき』を会得し、ついで客観的表現を取った存在様態としての『いき』の理解に進まなければならぬ」(p.20)というが、今回は言葉を分析することに着目するので、意識現象としての「いき」だけを扱うことにしたい。

さて、九鬼は「『いき』の内包的構造と外延的構造とを均しく闡明することによって、我々は意識現象としての『いき』の存在を完全に会得することができる」(p.22)という。

これは「A→いき」(図3)におけるAの特徴(いきの内包)とAの範囲(いきの外延)を明らかにすることで、意識現象としての「いき」を捉えることができるということである。

まず、内包について、九鬼は「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」(p.32)が「いき」であると結論する。これをベン図で表すと図4のようになり、論理的に表すと「諦かつ意気地かつ媚態→いき」となる。

図4図5

ここで気になるのは、「A→いき」(図3)ではなく「AかつBかつC→いき」(図5)という結論になっていることだが、これについて九鬼は「すべての思索の必然的制約として、概念的分析によるのほかはなかった」(p.95)と反省している。

すなわち「『媚態』といい、『意気地』といい、『諦め』といい、これらの概念は『いき』の部分ではなくて契機に過ぎない」(p.97)のであり、これらの概念の集合としてしか「いき」を捉えることができないのである。

また、外延について、九鬼は「『いき』と『いき』に関係を有する他の諸意味との区別を考察して、外延的に『いき』の意味を明晰ならしめなければならない」(p.35)という。

具体的には「人性的一般性かつ対自的かつ有価値的→上品」、「同じく反価値的→下品」、「人性的一般性かつ対他的かつ積極的→派手」、「同じく消極的→地味」、「異性的特殊性かつ対自的かつ有価値的→意気」、「同じく反価値的→野暮」、「異性的特殊性かつ対他的かつ積極的→甘味」、「同じく消極的→渋味」という分析を行っている。

この分析によれば、たとえば「上品」と「意気」の区別を「人性的一般性」と「異性的特殊性」の対立として、あるいは「意気」と「野暮」の区別を「有価値的」と「無価値的」の対立として捉えることができる。

さらに、以上の対立構造を直六面体で表すと図6のようになる。九鬼によれば「この直六面体の図式的価値は、他の同系統の趣味がこの六面体の表面および内部の一定点に配置されうる可能性と函数的関係をもっている」(p.53)。

図6

たとえば「『さび』とは、O、上品、地味のつくる三角形と、P、意気、渋味のつくる三角形とを両端面に有する三角柱の名称である」(p.55)。

さて、九鬼によれば、内包的には「諦かつ意気地かつ媚態→いき」であり、外延的には「異性的特殊性かつ対自的かつ有価値的→意気」である。

いずれにせよ九鬼は「AかつBかつC→いき」(図5)という図式を用いることで、概念の集合として「いき」を捉えており、それが「いき」を分析するということなのである。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-90.html

2015/09/06 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |