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【エトジュン】『千と千尋の神隠し』(自己と他者の話)

   ↑  2013/12/08 (日)  カテゴリー: エトジュン
今回は「自己」と「他者」に着目して『千と千尋の神隠し(千尋)』を見ることにしよう。


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まずは、オリエンタリズムの作品、すなわち「自己を規定するための他者」を描いた作品を見ることにしたい。

リンダ・ノックリンによれば、オリエンタリズムに典型的な主題として、裸の女性に対する所有幻想があるという。

たとえば、ジャン=レオン・ジェロームは、裸の力ない女性と着衣の力強い男性を様々な設定のなかに描いた。ここでは「奴隷市場」を参照しよう。


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「(奴隷として描かれた)彼女たちは、どこか遠くで自分たちの意思に反して捉えられた無垢の女性として描かれており、その裸体は、非難ではなくむしろ同情される対象となっている。彼女たちはまた、誘惑的な肉体をおおうよりはむしろ、目をそらすという迎合的な態度をとっている。」(ノックリン)


ジェロームの絵画は、作品を鑑賞しながら、女性を鑑賞できるようになっている。女性の裸体は、作品を鑑賞するうえでは同情の対象となり、女性を鑑賞するうえでは欲情の対象となるのだ。

「(ジェロームの様式は)同時代のほとんどの観者に、穏健な『客観性』を通して、彼の話の中における登場人物たちが、論争の余地のない『他者であること』を保証することによって、主題を正当化したのだった。」(ノックリン)


ジェロームの絵画は、観客にとっての「他者」を描いている。観客は、女性に欲情する「他者」を眺めながら、女性に同情することで「自己」の正当性を担保し、それから女性に欲情することが出来るのだ。

それでは『千尋』を見ることにするが、本作の舞台となる「油屋」には売春宿のモチーフが用いられている。また、千尋は「湯女」として働くことになるが、これは売春婦のことである。

その裏付けとして、宮崎駿の発言を参照しよう。

「いまの世界として描くには何がいちばんふさわしいかといえば、それは風俗営業だと思うんですよ。日本はすべて風俗営業みたいな社会になってるじゃないですか。」(日本版プレミア2001年9月号)


もちろん、これは作者の意図であり、作品がこの通りに解釈されなければならないということはない。映画とはテクスト(解釈の対象)であり、観客が自由に解釈するものだからである。

とはいえ、今回は作者の意図を踏まえながら作品を解釈することにしよう。

まず、千尋が売春婦であるとすれば、それを買うのは「油屋」の客、つまり「やおよろずの神々」ということになる。なかでも特徴的なのは、千尋を追いかけまわすカオナシだ。

カオナシは、黒い影にお面をつけた見た目で、無表情かつ得体の知れない存在である。そして言葉をもたないため、手から砂金を出すなどして千尋の気を引こうとした。カオナシは、まさに千尋を買おうとする客なのである。

では、売春宿を舞台にした『千尋』において、千尋を買おうとする客がカオナシなのはなぜだろうか。

先にも述べたように、カオナシとは「得体の知れない存在」であり、観客にとっては「他者」ということになるだろう。

観客は、千尋に欲情する「他者(カオナシ)」を眺めながら、千尋に同情することで「自己」の正当性を担保し、それから千尋に欲情することが出来るのだ。

それでは「自己」の正当性を担保するために「他者(カオナシ)」を必要とするのは誰だろうか。この問題提起に答えるのは困難だが、それを宮崎駿とする解答は最も有力なのではないだろうか。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-41.html

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