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【エトジュン】夏目漱石『こころ』を読む

   ↑  2015/09/20 (日)  カテゴリー: エトジュン
今回は、夏目漱石の『こころ』を読むことにしよう。

さて、主な登場人物は、私(主人公)、先生(遺書における私)、奥さん(遺書における御嬢さん)、そしてKである。

全体としては、上(先生と私)、中(両親と私)、下(先生の遺書)の三部構成であり、下が先生の遺書そのもの、上と中がそれを読んだ私による回想である。

本作といえば現代文の授業だが、筆者の教科書には、下35項の「Kは何時もに似合わない話を始めました」から下48項の「血潮を始めて見たのです」までが載っていたと思う。

当時の印象では、先生がKを裏切って御嬢さんを奪う物語だと思っていた。しかし、本当にそうだろうか。御嬢さんは「奪われた」のだろうか。

筆者が考えてみたいのは、御嬢さんは誰と結婚したかったのかという問題である。まずは、Kの自殺から数ヶ月後の場面を見てみよう。

【先生の記述】

「結婚した時御嬢さんが、――もう御嬢さんではありませんから、妻といいます。――妻が、何を思い出したのか、二人でKの墓参りをしようといい出しました。[…]妻は二人揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろうというのです。[…]妻は定めて私といっしょになった顛末を述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう。」(下51項)


なるほど、御嬢さんは先生とKの間に起こった悲劇を知らない。少なくとも御嬢さんには「奪われた」という感覚はないだろう。結婚生活についてはこう述べている。

【奥さん(御嬢さん)の発話】

「私は先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」(上17項)


奥さんは先生と結婚したことに喜びを感じているようだ。では、いつから先生に好意を向けるようになったのだろうか。奥さんがまだ御嬢さんだった頃に戻ってみよう。

【先生の記述】

「それのみならず私は御嬢さんの態度の少し前と変っているのに気が付きました。[…]御嬢さんがすべて私の方を先にして、Kを後廻しにするように見えたのです。[…]つまり御嬢さんは私だけに解るように、持前の親切を余分に私の方へ割り宛ててくれたのです。」(下32項)


もちろん、これだけでは御嬢さんの気持ちは分からない。しかし、以下の場面は決定的である。

【先生の記述】

「私はKに一体百人一首の歌を知っているのかと尋ねました。Kはよく知らないと答えました。私の言葉を聞いた御嬢さんは、大方Kを軽蔑するとでも取ったのでしょう。それから眼に立つようにKの加勢をし出しました。しまいには二人がほとんど組になって私に当るという有様になって来ました。」(下35項)


まず、御嬢さんがKに加勢したのはなぜか。それは先生に好意を向けていたからである。好きな相手をいじりたかったのだろう。

しかし、先生はKに嫉妬してしまう。先生は御嬢さんの好意を受け取ることができなかったのである。

ところで、現代文の教科書に載っている範囲は、この場面の数日後から始まる。先生はKの気持ちを知ることになるが、そのときにはすでに御嬢さんの気持ちは先生に向いていたのである。

したがって、御嬢さんは最初から先生と結婚したかったのだといえるだろう。それでは、先生が御嬢さんの好意を受け取れなかったのはなぜだろうか。

まず、自己不信に陥っている人間は相手の好意を受け取ることができない。「自分が相手の好意の対象である」ということを信じられないからだ。

では、先生は自己不信に陥っていたのだろうか。先生のKに対する劣等感を見てみよう。

【先生の記述】

「容貌もKの方が女に好かれるように見えました。性質も私のようにこせこせしていないところが、異性には気に入るだろうと思われました。どこか間が抜けていて、それでどこかにしっかりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。」(下29項)


なるほど、先生はKに対する劣等感から相対的な自己不信に陥っていたといえるだろう。先生は自己不信のために御嬢さんの好意を受け取ることができなかったのである。

さらに、Kを裏切った先生は、絶対的な自己不信に陥ってしまう。

【先生の発話】

「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。」(上14項)


これは「自分が相手の好意の対象である」ということを信じられないから、相手の好意も信じられないということだ。

したがって、先生は結婚した後も奥さん(御嬢さん)の好意を受け取ることができなかった。ここで重要なのは、先生が奥さんの好意を理解していたことである。

【先生の発話】

「妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」(上10項)


なるほど、先生は奥さんの好意を理解していたが、受け取ることができなかったのである。その歯痒さが「であるべきはず」という不自然な言い回しに現れているのだろう。

また、先生にとって「受け取れない」ことは「満足を与えられない」ことであり、うしろめたいことだった。

【先生の記述】

「自分自身さえ頼りにする事のできない私は、妻の顔を見て思わず涙ぐみました。そうして妻を不幸な女だと思いました。また不幸な女だと口へ出してもいいました。妻はなぜだと聞きます。妻には私の意味が解らないのです。私もそれを説明してやる事ができないのです。」(下54項)


先生が奥さんを「不幸な女」だと思ったのは、奥さんの好意を受け取ってやれなかったからである。

そして「説明してやる事ができない」のは、それが自己不信を告白することであり、奥さんの好意を拒否することになってしまうからだ。

先生は「受け取れない」ことをうしろめたく感じ、隠していたのである。

ところで、先生と私(主人公)は疑似的な恋愛関係にあった。もちろん、私の気持ちは「好意」というより「敬意」であるが、自己不信に陥っていた先生は私の敬意を受け取ることができなかった。

【私の記述】

「傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止せという警告を与えたのである。他の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。」(上4項)


また、先生にとって「受け取れない」ことは「満足を与えられない」ことであり、うしろめたいことだった。

【先生の発話】

「私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。」(上13項)


そうして、いったんは私の敬意を斥けるが、やがてそれを受け取ろうと決意する。

【先生の発話】

「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎる様だ。私は死ぬ前にたった一人でいいから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか」(上31項)


それでは、先生が私の敬意を受け取ろうとしたのはなぜだろうか。

先生は、奥さんとの恋愛において好意を受け取れず、私との擬似恋愛において敬意を受け取れなかった。また、先生にとって「受け取れない」ことは「満足を与えられない」ことであり、うしろめたいことだった。

なるほど、先生は「受け取ること(テイク)」が「与えること(ギブ)」になると考えていた。先生は「受け取ってあげること(テイクによるギブ)」ができなかったのである。

さて、筆者の考えでは「受け取ってあげること」は「愛すること」である。逆に言えば「受け取ってもらうこと」は「愛されること」だと考えている。これにしたがって以下の記述を見てみよう。

【私の記述】

「私は最初から先生には近づき難い不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。[…]人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、―――これが先生であった。」(上6項)


「手をひろげて抱き締める事(受け取ってあげること)」が「愛すること」だとすれば、先生は「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて愛することのできない人」ということになる。

先生は、このジレンマを乗り越えて私を愛そうとしたのではないだろうか。私の「どうしても近づかなければいられないという感じ」は、まさしく恋だ。先生は私の恋心を「受け取ってあげること」で私を愛そうとしたのである。

さて、小説『こころ』は受け取れない人間が受け取ろうとする物語だった。先生が受け取ろうとしたのは、相手の気持ち、すなわち「こころ」である。心を受け取ると書いて愛とするなら、先生は愛の実際家だといえるだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-87.html

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