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【エトジュン】プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(L)

   ↑  2017/10/01 (日)  カテゴリー: レジメ
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神-001
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神-002
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神-003
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神-004
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神-005
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神-006
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神-007
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神-008

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【エトジュン】プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(S)

   ↑  2017/02/01 (水)  カテゴリー: レジメ
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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【エトジュン】List of Worthwhile Anime by Etojun

   ↑  2016/10/01 (土)  カテゴリー: レジメ
List of Worthwhile Anime by Etojun

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【エトジュン】『秒速5センチメートル』を見る

   ↑  2016/08/20 (土)  カテゴリー: エトジュン

「まるで雪みたいじゃない?」


秒速5センチメートルで落ちるサクラの花びらを見て、篠原明里はそう言った。遠野貴樹は「そうかな」と答えた。

「来年も一緒にサクラ見れるといいね」


さて、明里が引っ越すことになったのは、小学校を卒業するときのことである。卒業式で「さよならだね」という明里に貴樹は「さよなら」と答えることが出来なかった。

「明里からの最初の手紙が届いたのは、それから半年後。中1の夏だった」


そうして、ふたりは手紙のやりとりを始め、その半年後には貴樹が引っ越すことになった。貴樹は、本当に会えなくなる前に明里に会いに行くことにした。

「約束の今日まで2週間かけて、僕は明里に渡すための手紙を書いた。明里に伝えなければいけないこと、聞いて欲しいことが、本当に僕にはたくさんあった」


ところで、貴樹が暮らす世田谷から明里が暮らす岩舟町まで、在来線を乗り継いで3時間程度の距離である。この日は雪のため電車が遅れることになった。

電車を乗り換えるとき、貴樹は明里への手紙を失くした。落としたところを風に飛ばされたのである。それでも貴樹は明里の待つ駅に向かうしかなかった。

そうして、貴樹が岩舟駅に着いたのは、約束の時間から4時間後のことである。中学生になった明里は、手作りのお弁当を持って貴樹のことを待っていた。

ふたりは、いつか明里が手紙に書いた大きなサクラの木を見に行くことにした。「まるで雪みたいじゃない?」という明里に貴樹は「そうだね」と答えた。

完璧な瞬間だった。

「明里への手紙を失くしてしまったことを僕は明里に言わなかった。あのキスの前と後とでは世界の何もかもが変わってしまったような気がしたからだ」


ところで、明里の方でも貴樹に渡すための手紙を書いていた。そして、それを渡すことが出来なかった。あの完璧な瞬間に世界の何もかもが変わってしまったからである。

そうして「貴樹くんはきっとこの先も大丈夫だと思う、絶対」という明里に貴樹は「ありがとう」と答えた。ふたりは「さよなら」を言わずに別れてしまった。


byousoku.png


さて、ふたりが渡せなかった手紙には何が書いてあったのだろうか。筆者の考えでは「さよなら」である。ふたりは、完璧な瞬間によって「さよなら」を言えなくなったのではないだろうか。

そして、貴樹が引っ越したことによって、ふたりは本当に会えなくなってしまった。貴樹は「記憶に足をとられて次の場所を選べない」まま大人になった。

「この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的とも言えるようなその思いが、どこから湧いてくるのかも分からずに、僕はただ働き続け、気づけば日々弾力を失っていく心がひたすら辛かった」


一方で、明里は貴樹に渡せなかった手紙をどこかにしまったまま大人になった。明里が貴樹のことを思い出したのは、結婚式を控えた冬の日のことである。

それでは、貴樹が前に進めず、明里が前に進めたのはなぜだろうか。ここでは、福田恆存『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫)を参照しよう。

「愛は自然にまかせて内側から生れてくるものではない。ただそれだけではない。愛もまた創造である。意識して作られるものである。女はそうおもう。自分はいつでもそうしてきた。だが、男にはそれがわからない。かれは自然にまかせ、自然のうちに埋没している。愛はみずから自分を完成するものだ、そうおもっている」


なるほど、女の愛は「創造」であり、男の愛は「現象」である。ところで、貴樹が前に進めず、明里が前に進めたのは、貴樹の愛が現象であり、明里の愛が創造だからではないだろうか。

貴樹は、届かないもの(完璧な瞬間に現象した愛)に手を触れようとして、前に進めなくなったのではないだろうか。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-100.html

2016/08/20 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】教養新書

   ↑  2016/04/01 (金)  カテゴリー: 未分類
岩波新書、中公新書、現代新書の3社合同教養新書フェアをまとめました。

合同新書フェア(2012年)知に歴史あり


1.小田野さん(岩波新書)選

・石光真人編『ある明治人の記録ー会津人柴五郎の遺書』
・山室信一『キメラー満洲国の肖像』
・佐藤俊樹『不平等社会日本ーさよなら総中流』
・池上俊一『動物裁判』
・橋爪大三郎『はじめての構造主義』
・福岡伸一『生物と無生物のあいだ』


キメラ―満洲国の肖像 (中公新書)


2.白戸さん(中公新書)選

・池上彰『相手に「伝わる」話し方』
・玉野和志『創価学会の研究』
・佐々木敦『ニッポンの思想』
・原彬久『岸信介ー権勢の政治家』
・鎌田慧『ドキュメント屠場』
・吉見俊哉『ポスト戦後社会』


ポスト戦後社会―シリーズ日本近現代史〈9〉 (岩波新書)


3.岡本さん(現代新書)選

・鶴見良行『バナナと日本人ーフィリピン農園と食卓のあいだ』
・中村雄二郎『術語集ー気になることば』
・太平健『豊かさの精神病理』
・本川達雄『ゾウの時間ネズミの時間ーサイズの生物学』
・臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻るー近代市民社会の黒い血液』
・岡田暁生『西洋音楽史ー「クラシック」の黄昏』


西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)


4.これぞ岩波新書(省略)

5.これぞ中公新書(省略)

6.これぞ現代新書(省略)


教養新書合同フェア(2013年)日本の課題


1.政治を変えるには

・宇野重規『<私>時代のデモクラシー』
・林芳正ほか『国会議員の仕事ー職業としての政治』
・小熊英二『社会を変えるには』

2.誰のための経済か

・小野善康『成熟社会の経済学』
・ロナルド・ドーア『金融が乗っ取る世界経済ー21世紀の憂鬱』
・佐伯啓思『経済学の犯罪ー稀少性の経済から過剰性の経済へ』

3.高齢社会の中で

・小澤勲『認知症とは何か』
・池田学『認知症ー専門医が語る診断・治療・ケア』
・鈴木隆雄『超高齢社会の基礎知識』

4.この社会を生きる

・白波瀬佐和子『生き方の不平等ーお互いさまの社会に向けて』
・本田良一『ルポ生活保護ー貧困をなくす新たな取り組み』
・坂口恭平『独立国家のつくりかた』

5.外交とは何か

・豊下楢彦『集団的自衛権とは何か』
・渡辺靖『文化と外交ーパブリック・ディプロマシーの時代』
・孫崎享『不愉快な現実ー中国の大国化、米国の戦略転換』

6.中国と向き合う

・唐亨『現代中国の政治ー「開発独裁」とそのゆくえ』
・白石隆ほか『中国は東アジアをどう変えるか』
・加藤隆則『中国社会の見えない掟』

7.近現代史の焦点

・編集部編『日本の近現代史をどう見るか』
・成田龍一『近現代日本史と歴史学』
・加藤陽子『戦争の日本近現代史』


戦争の日本近現代史 (講談社現代新書)


8.環境とエネルギー

・井田徹治ほか『グリーン経済最前線』
・吉田文和『グリーン・エコノミーー脱原発と温暖化対策の経済学』
・宮台真司ほか『原発社会からの離脱』

9.教育のゆくえ

・柏木惠子『子どもが育つ条件ー家族心理学から考える』
・森田洋司『いじめとは何かー教室の問題、社会の問題』
・内藤朝雄『いじめの構造ーなぜ人が怪物になるのか』


いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)


10.ヒトはどこまでわかったか

・安西祐一郎『心と脳ー認知科学入門』
・酒井邦嘉『言語の脳科学ー脳はどのようにことばを生みだすか』
・下條信輔『<意識>とは何だろうかー脳の来歴、知覚の錯誤』



言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか (中公新書)


教養新書合同フェア(2014年)日本の針路


1.歴史・哲学

・植木雅俊『仏教、本当の教えーインド、中国、日本の理解と誤解』
・石光真人編『ある明治人の記録ー会津人柴五郎の遺書』
・柄谷行人『世界共和国へ』
・加藤陽子『戦争の日本近現代史』
・山折哲雄『神と仏』
・梅原猛『人類哲学序説』

2.実用・語学

・長田弘『なつかしい時間』
・植田紀行『生きる意味』
・岡田暁生『音楽の聴き方ー聴く型と趣味を語る言葉』
・池上彰『学び続ける力』
・外山滋比古『ユーモアのレッスン』
・中川右介『歌舞伎ー家と血と藝』


音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)


3.社会

・平田オリザ『わかりあえないことから』
・原研哉『日本のデザインー美意識がつくる未来』
・小熊英二『社会を変えるには』
・山崎亮『コミュニティデザインの時代ー自分たちで「まち」をつくる』
・松元雅和『平和主義とは何かー政治哲学で考える戦争と平和』
・暉峻淑子『社会人の生き方』


わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)


4.自然科学

・福岡伸一『生物と無生物のあいだ』
・市川伸一『考えることの科学ー推論の認知心理学への招待』
・中村桂子『科学者が人間であること』
・青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのかー人間原理と宇宙論』
・酒井邦嘉『科学者という仕事ー独創性はどのように生まれるか』
・池内了『疑似科学入門』


生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)


5.政治・経済

・三木義一『日本の税金』
・細谷雄一『国際秩序ー18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ』
・大竹文雄『競争と公平感ー市場経済の本当のメリット』
・佐伯啓思『経済学の犯罪ー稀少性の経済から過剰性の経済へ』
・杉田敦『政治的思考』
・孫崎享『日米同盟の正体ー迷走する安全保障』


教養新書合同フェア(2015年)教養の原点


1.政治・経済

・服部茂幸『アベノミクスの終焉』
・広井良典『定常型社会ー新しい「豊かさ」の構想』
・猪木武徳『経済学に何ができるかー文明社会の制度的枠組み』
・大竹文雄『経済学的思考のセンスーお金がない人を助けるには』
・高木徹『国際メディア情報戦』
・佐伯啓思『経済学の犯罪ー稀少性の経済から過剰性の経済へ』

2.社会

・宇沢弘文『社会的共通資本』
・師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』
・山崎亮『コミュニティデザインの時代ー自分たちで「まち」をつくる』
・森田洋司『いじめとは何かー教室の問題、社会の問題』
・中根千枝『タテ社会の人間関係』
・赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』


タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)


3.歴史

・加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』
・都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』
・川田稔『昭和陸軍の軌跡ー永田鉄山の構想とその分岐』
・石光真人編『ある明治人の記録ー会津人柴五郎の遺書』
・一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵ー米軍報告書は語る』
・仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』


満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)


4.科学

・中谷宇吉郎『科学の方法』
・仲野徹『エピジェネティクスー新しい生命像をえがく』
・本川達雄『ゾウの時間ネズミの時間ーサイズの生物学』
・田中修『ふしぎの植物学ー身近な緑の知恵と仕事』
・青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのかー人間原理と宇宙論』
・中沢弘基『生命誕生ー地球史から読み解く新しい生命像』


ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)


5.これからを生きる

・玄田有史『希望のつくり方』
・齋藤孝『古典力』
・玄侑宗久『さすらいの仏教語』
・里中哲彦『英語の質問箱ーそこが知りたい100のQ&A 』
・板坂元『考える技術・書く技術』
・平田オリザ『わかりあえないことから』


教養新書合同フェア(2016年)身近な問題を解く鍵


1.過去

・服部龍二『外交ドキュメント歴史認識』
・成田龍一『近現代日本史と歴史学ー書き替えられてきた過去』
・保坂正康『50年前の憲法大論争』
・水野直樹ほか『在日朝鮮人ー歴史と現在』
・猪木武徳『戦後世界経済史ー自由と平等の視点から』
・孫崎享『日米同盟の正体ー迷走する安全保障』


外交ドキュメント 歴史認識 (岩波新書)


2.現在

・阿部彩『子どもの貧困ー日本の不公平を考える』
・内山真『睡眠のはなしー快眠のためのヒント』
・山口二郎『若者のための政治マニュアル』
・中野晃一『右傾化する日本政治』
・釘原直樹『人はなぜ集団になると怠けるのか』
・阿部彩『弱者の居場所がない社会ー貧困・格差と社会的包摂』
・結城康博『在宅介護ー「自分で選ぶ」視点から』
・稲葉陽二『ソーシャル・キャピタル入門ー孤立から絆へ』
・斎藤貴男『消費税のカラクリ』


子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)


3.未来

・駒村康平『日本の年金』
・河野稠果『人口学への招待ー少子・高齢化はどこまで解明されたか』
・宮台真司ほか『原発社会からの離脱』
・広井良典『ポスト資本主義ー科学・人間・社会の未来』
・酒井邦嘉『言語の脳科学ー脳はどのようにことばを生みだすか』
・孫崎享『不愉快な現実ー中国の大国化、米国の戦略転換』
・川上量生『鈴木さんにも分かるネットの未来』
・池田学『認知症ー専門医が語る診断・治療・ケア』
・小熊英二『社会を変えるには』



鈴木さんにも分かるネットの未来 (岩波新書)

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【エトジュン】著作集Ⅱ

   ↑  2015/10/01 (木)  カテゴリー: 未分類
etojun2.png

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【エトジュン】ギブアンドテイク恋愛論

   ↑  2015/09/27 (日)  カテゴリー: エトジュン
1.序論

1-1.概念を分析すること

別記事:九鬼周造『「いき」の構造』を読む

1-2.概念を仮定すること

ところで、「AかつBかつC→いき」(図5)というとき、いきという概念はAかつBかつCという言説(概念の集合)を表現している。すなわち、概念は言説の表現形態なのである。

図5


本節では、言説が形成される過程を見ることで、その表現形態としての概念がいかに形成されるのかを明らかにしたい。

さて、言説はすべて仮説として始まる。では、仮説はどのように形成されるのだろうか。今回は、アブダクションと呼ばれる推論形式を参照しよう。

米盛裕二によれば、アブダクションとは、ある意外な事実Cを説明するために仮説Hを発案し、仮説Hと事実Cの間に「Hが真であれば、Cは当然の事柄であろう」といえる関係が成り立つならば、仮説Hは真らしいと考える推論の形式である。

つまり、仮説Hが述べている事実・法則・理論が真であれば、事実Cが起こるのは当然であろうと納得できるとき、仮説Hを採択するのである。

このように仮説は、ある事実を説明するために発案され、採択されることで形成されるのだといえるだろう。

では、仮説はどのように言説となるのだろうか。アブダクションを科学的探究の第一段階として定式化したパースは、そこで形成された仮説を検討する過程として、第二段階の演繹と第三段階の帰納を位置づけている。

演繹とは、ある仮説が真であるとして、その仮説から必然的にあるいは高い確率で導かれる経験的な(観察可能な)諸帰結を予測することであり、帰納とは、演繹によって予測された諸帰結を経験的事実に照らして検証することである。

このように、ある事実を説明するために仮説を形成し、そこから導かれる諸帰結を予測し、それを経験的事実に照らして検証することが科学的探究の過程だといえるだろう。そして、その過程を経て実証された仮説が言説となるのである。

さて、言説の表現形態としての概念も、ある事実を説明するために仮定されるものである。そして、その仮定された概念から諸帰結が導かれ、それが経験的に検証されることで、より実証的な概念が形成されるのだといえるだろう。

1-3.恋愛について

それでは「恋愛」を分析してみよう。それは「何が恋愛か」を問うことであり、概念の集合として「恋愛」を捉えることである。

まずは、2つの行為、すなわち「あたえること(ギブ)」と「うけとること(テイク)」の集合として恋愛を捉えてみよう。

筆者の考えでは、これらの行為は「あげること(ギブ)」と「もらうこと(テイク)」を使って整理することができる。

たとえば「あたえること(ギブ)」は「うけとってもらうこと(テイク)」であり、「うけとること(テイク)」は「うけとってあげること(ギブ)」である。

ここで気になるのは、ギブはテイクであり、テイクはギブであるというパラドックスが生じていることだが、このパラドックスこそが恋愛の性質なのではないだろうか。

本論考では、ギブによるテイクを「恋」、テイクによるギブを「愛」と仮定し、これらの概念の集合として「恋愛」を捉えることにしたい。

2.本論

2-1.愛のむきだし

本節では、映画『愛のむきだし』を紹介しよう。本作は、2つの行為、すなわち「こたえること(ギブ)」と「もとめること(テイク)」の集合として恋愛を捉えた作品である。

これら2つの行為を整理すると、「こたえること(ギブ)」は「もとめてもらうこと(テイク)」であり、「もとめること(テイク)」は「もとめてあげること(ギブ)」である。

したがって、ギブによるテイクを「恋」、テイクによるギブを「愛」とすれば、「こたえること」は「恋」、「もとめること」は「愛」となる。とりわけ本作は「もとめること」を「愛すること」として描いた作品だといえるだろう。

別記事:園子温『愛のむきだし』を見る

2-2.こころ

本節では、小説『こころ』を紹介しよう。本作は、2つの行為、すなわち「あたえること(ギブ)」と「うけとること(テイク)」の集合として恋愛を捉えた作品である。

これら2つの行為を整理すると、「あたえること(ギブ)」は「うけとってもらうこと(テイク)」であり、「うけとること(テイク)」は「うけとってあげること(ギブ)」である。

したがって、ギブによるテイクを「恋」、テイクによるギブを「愛」とすれば、「あたえること」は「恋」、「うけとること」は「愛」となる。とりわけ本作は「うけとること」を「愛すること」として描いた作品だといえるだろう。

別記事:夏目漱石『こころ』を読む

3.結論

筆者の考えでは、概念は着眼点である。たとえば、本論考では、ギブによるテイクを「恋」、テイクによるギブを「愛」と仮定し、これらの概念に着目することで映画や小説を語ってきた。なるほど、概念は着眼点であり、筆者は独自の概念(着眼点)を仮定することで、議論を展開してきたのである。

また、映画『愛のむきだし』は「もとめること」を描いた作品であり、小説『こころ』は「うけとること」を描いた作品である。これらの行為はテイクによるギブであり、筆者はそれを「愛」と呼ぶのである。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-91.html

2015/09/27 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】夏目漱石『こころ』を読む

   ↑  2015/09/20 (日)  カテゴリー: エトジュン
今回は、夏目漱石の『こころ』を読むことにしよう。

さて、主な登場人物は、私(主人公)、先生(遺書における私)、奥さん(遺書における御嬢さん)、そしてKである。

全体としては、上(先生と私)、中(両親と私)、下(先生の遺書)の三部構成であり、下が先生の遺書そのもの、上と中がそれを読んだ私による回想である。

本作といえば現代文の授業だが、筆者の教科書には、下35項の「Kは何時もに似合わない話を始めました」から下48項の「血潮を始めて見たのです」までが載っていたと思う。

当時の印象では、先生がKを裏切って御嬢さんを奪う物語だと思っていた。しかし、本当にそうだろうか。御嬢さんは「奪われた」のだろうか。

筆者が考えてみたいのは、御嬢さんは誰と結婚したかったのかという問題である。まずは、Kの自殺から数ヶ月後の場面を見てみよう。

【先生の記述】

「結婚した時御嬢さんが、――もう御嬢さんではありませんから、妻といいます。――妻が、何を思い出したのか、二人でKの墓参りをしようといい出しました。[…]妻は二人揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろうというのです。[…]妻は定めて私といっしょになった顛末を述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう。」(下51項)


なるほど、御嬢さんは先生とKの間に起こった悲劇を知らない。少なくとも御嬢さんには「奪われた」という感覚はないだろう。結婚生活についてはこう述べている。

【奥さん(御嬢さん)の発話】

「私は先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」(上17項)


奥さんは先生と結婚したことに喜びを感じているようだ。では、いつから先生に好意を向けるようになったのだろうか。奥さんがまだ御嬢さんだった頃に戻ってみよう。

【先生の記述】

「それのみならず私は御嬢さんの態度の少し前と変っているのに気が付きました。[…]御嬢さんがすべて私の方を先にして、Kを後廻しにするように見えたのです。[…]つまり御嬢さんは私だけに解るように、持前の親切を余分に私の方へ割り宛ててくれたのです。」(下32項)


もちろん、これだけでは御嬢さんの気持ちは分からない。しかし、以下の場面は決定的である。

【先生の記述】

「私はKに一体百人一首の歌を知っているのかと尋ねました。Kはよく知らないと答えました。私の言葉を聞いた御嬢さんは、大方Kを軽蔑するとでも取ったのでしょう。それから眼に立つようにKの加勢をし出しました。しまいには二人がほとんど組になって私に当るという有様になって来ました。」(下35項)


まず、御嬢さんがKに加勢したのはなぜか。それは先生に好意を向けていたからである。好きな相手をいじりたかったのだろう。

しかし、先生はKに嫉妬してしまう。先生は御嬢さんの好意を受け取ることができなかったのである。

ところで、現代文の教科書に載っている範囲は、この場面の数日後から始まる。先生はKの気持ちを知ることになるが、そのときにはすでに御嬢さんの気持ちは先生に向いていたのである。

したがって、御嬢さんは最初から先生と結婚したかったのだといえるだろう。それでは、先生が御嬢さんの好意を受け取れなかったのはなぜだろうか。

まず、自己不信に陥っている人間は相手の好意を受け取ることができない。「自分が相手の好意の対象である」ということを信じられないからだ。

では、先生は自己不信に陥っていたのだろうか。先生のKに対する劣等感を見てみよう。

【先生の記述】

「容貌もKの方が女に好かれるように見えました。性質も私のようにこせこせしていないところが、異性には気に入るだろうと思われました。どこか間が抜けていて、それでどこかにしっかりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。」(下29項)


なるほど、先生はKに対する劣等感から相対的な自己不信に陥っていたといえるだろう。先生は自己不信のために御嬢さんの好意を受け取ることができなかったのである。

さらに、Kを裏切った先生は、絶対的な自己不信に陥ってしまう。

【先生の発話】

「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。」(上14項)


これは「自分が相手の好意の対象である」ということを信じられないから、相手の好意も信じられないということだ。

したがって、先生は結婚した後も奥さん(御嬢さん)の好意を受け取ることができなかった。ここで重要なのは、先生が奥さんの好意を理解していたことである。

【先生の発話】

「妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」(上10項)


なるほど、先生は奥さんの好意を理解していたが、受け取ることができなかったのである。その歯痒さが「であるべきはず」という不自然な言い回しに現れているのだろう。

また、先生にとって「受け取れない」ことは「満足を与えられない」ことであり、うしろめたいことだった。

【先生の記述】

「自分自身さえ頼りにする事のできない私は、妻の顔を見て思わず涙ぐみました。そうして妻を不幸な女だと思いました。また不幸な女だと口へ出してもいいました。妻はなぜだと聞きます。妻には私の意味が解らないのです。私もそれを説明してやる事ができないのです。」(下54項)


先生が奥さんを「不幸な女」だと思ったのは、奥さんの好意を受け取ってやれなかったからである。

そして「説明してやる事ができない」のは、それが自己不信を告白することであり、奥さんの好意を拒否することになってしまうからだ。

先生は「受け取れない」ことをうしろめたく感じ、隠していたのである。

ところで、先生と私(主人公)は疑似的な恋愛関係にあった。もちろん、私の気持ちは「好意」というより「敬意」であるが、自己不信に陥っていた先生は私の敬意を受け取ることができなかった。

【私の記述】

「傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止せという警告を与えたのである。他の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。」(上4項)


また、先生にとって「受け取れない」ことは「満足を与えられない」ことであり、うしろめたいことだった。

【先生の発話】

「私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。」(上13項)


そうして、いったんは私の敬意を斥けるが、やがてそれを受け取ろうと決意する。

【先生の発話】

「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎる様だ。私は死ぬ前にたった一人でいいから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか」(上31項)


それでは、先生が私の敬意を受け取ろうとしたのはなぜだろうか。

先生は、奥さんとの恋愛において好意を受け取れず、私との擬似恋愛において敬意を受け取れなかった。また、先生にとって「受け取れない」ことは「満足を与えられない」ことであり、うしろめたいことだった。

なるほど、先生は「受け取ること(テイク)」が「与えること(ギブ)」になると考えていた。先生は「受け取ってあげること(テイクによるギブ)」ができなかったのである。

さて、筆者の考えでは「受け取ってあげること」は「愛すること」である。逆に言えば「受け取ってもらうこと」は「愛されること」だと考えている。これにしたがって以下の記述を見てみよう。

【私の記述】

「私は最初から先生には近づき難い不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。[…]人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、―――これが先生であった。」(上6項)


「手をひろげて抱き締める事(受け取ってあげること)」が「愛すること」だとすれば、先生は「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて愛することのできない人」ということになる。

先生は、このジレンマを乗り越えて私を愛そうとしたのではないだろうか。私の「どうしても近づかなければいられないという感じ」は、まさしく恋だ。先生は私の恋心を「受け取ってあげること」で私を愛そうとしたのである。

さて、小説『こころ』は受け取れない人間が受け取ろうとする物語だった。先生が受け取ろうとしたのは、相手の気持ち、すなわち「こころ」である。心を受け取ると書いて愛とするなら、先生は愛の実際家だといえるだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-87.html

2015/09/20 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】園子温『愛のむきだし』を見る

   ↑  2015/09/13 (日)  カテゴリー: エトジュン
今回は、園子温の『愛のむきだし』を見ることにしよう。


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さて、本作のテーマは「罪」と「愛」である。まずは「罪」について、新約聖書を引用しよう。

【ローマの信徒への手紙 第7章】

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。[…]このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」


なるほど、キリスト教は「肉」の問題を「罪」として捉えている。本作『愛のむきだし』は「勃起」を「罪」として捉えているが、やはり「肉」の問題を「罪」として捉えているのである。次に「愛」について、再び新約聖書を引用しよう。

【コリントの信徒への手紙1 第13章】

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。[…]それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」


ところで、これら2つのテーマはどのように結びつくのだろうか。筆者の考えでは、そこでヒントになるのが「演じるな」という裏テーマである。

たとえば、ユウ(主人公)は、罪深い息子を演じることで父親(神父)に愛されようとしたり、アネゴ・サソリを演じることでヨーコ(ヒロイン)に愛されようとしたりするが、いずれも失敗に終わる。

また、ユウと敵対するゼロ教会は、信者を「CAVE(空洞)、ACTOR(演者)、PROMPTER(黒子)」に分類するなど、演じることをモチーフにした新興宗教であるが、物語の終盤において解体されてしまう。

このように本作の裏テーマは「演じるな」ということであり、それは「肉を偽るな」ということである。そうして、ユウは「肉」の問題を「愛」として捉えるようになり、それを「むきだし」にすることで「愛すること」を実践するのである。

なるほど、本作『愛のむきだし』は「肉」の問題を「罪」として捉えていたが、それを「愛」として捉えるようになるのである。ユウは「愛を恥じるな」というが、それは「勃起を恥じるな」ということなのだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-89.html

2015/09/13 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】九鬼周造『「いき」の構造』を読む

   ↑  2015/09/06 (日)  カテゴリー: エトジュン
「Xとは何か」に答えることは出来ない。しかし、「何がXか」に答えることは出来る。前者は言葉を定義することであり、後者は言葉を分析することである。

さて、言葉を分析することについて、九鬼周造の『「いき」の構造』を紹介しよう。本書は「いき」とは何かに答えた本ではなく、何が「いき」かに答えた本である。言い換えれば、「いき」を定義した本ではなく、「いき」を分析した本である。


「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)


まず、九鬼は「『いき』を単に種概念として取扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する『本質直観』を索めてはならない。意味体験としての『いき』の理解は、具体的な、事実的な、特殊な『存在会得』でなければならない」(pp.19-20)という。

ここで、種概念と類概念の関係をベン図で表すと図1のようになり、論理的に表すと「種→類」となる。九鬼は「いき」を種概念としてではなく、類概念として捉えなければならないというが、それはすなわち「いき→A」(図2)という抽象的な本質Aを求めるのではなく、「A→いき」(図3)という具体的な存在Aを求めなければならないということである。

図1図2図3

また、九鬼は「我々はまず意識現象の名の下に成立する存在様態としての『いき』を会得し、ついで客観的表現を取った存在様態としての『いき』の理解に進まなければならぬ」(p.20)というが、今回は言葉を分析することに着目するので、意識現象としての「いき」だけを扱うことにしたい。

さて、九鬼は「『いき』の内包的構造と外延的構造とを均しく闡明することによって、我々は意識現象としての『いき』の存在を完全に会得することができる」(p.22)という。

これは「A→いき」(図3)におけるAの特徴(いきの内包)とAの範囲(いきの外延)を明らかにすることで、意識現象としての「いき」を捉えることができるということである。

まず、内包について、九鬼は「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」(p.32)が「いき」であると結論する。これをベン図で表すと図4のようになり、論理的に表すと「諦かつ意気地かつ媚態→いき」となる。

図4図5

ここで気になるのは、「A→いき」(図3)ではなく「AかつBかつC→いき」(図5)という結論になっていることだが、これについて九鬼は「すべての思索の必然的制約として、概念的分析によるのほかはなかった」(p.95)と反省している。

すなわち「『媚態』といい、『意気地』といい、『諦め』といい、これらの概念は『いき』の部分ではなくて契機に過ぎない」(p.97)のであり、これらの概念の集合としてしか「いき」を捉えることができないのである。

また、外延について、九鬼は「『いき』と『いき』に関係を有する他の諸意味との区別を考察して、外延的に『いき』の意味を明晰ならしめなければならない」(p.35)という。

具体的には「人性的一般性かつ対自的かつ有価値的→上品」、「同じく反価値的→下品」、「人性的一般性かつ対他的かつ積極的→派手」、「同じく消極的→地味」、「異性的特殊性かつ対自的かつ有価値的→意気」、「同じく反価値的→野暮」、「異性的特殊性かつ対他的かつ積極的→甘味」、「同じく消極的→渋味」という分析を行っている。

この分析によれば、たとえば「上品」と「意気」の区別を「人性的一般性」と「異性的特殊性」の対立として、あるいは「意気」と「野暮」の区別を「有価値的」と「無価値的」の対立として捉えることができる。

さらに、以上の対立構造を直六面体で表すと図6のようになる。九鬼によれば「この直六面体の図式的価値は、他の同系統の趣味がこの六面体の表面および内部の一定点に配置されうる可能性と函数的関係をもっている」(p.53)。

図6

たとえば「『さび』とは、O、上品、地味のつくる三角形と、P、意気、渋味のつくる三角形とを両端面に有する三角柱の名称である」(p.55)。

さて、九鬼によれば、内包的には「諦かつ意気地かつ媚態→いき」であり、外延的には「異性的特殊性かつ対自的かつ有価値的→意気」である。

いずれにせよ九鬼は「AかつBかつC→いき」(図5)という図式を用いることで、概念の集合として「いき」を捉えており、それが「いき」を分析するということなのである。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-90.html

2015/09/06 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『新世紀エヴァンゲリオン』を見る

   ↑  2015/08/01 (土)  カテゴリー: エトジュン
今回は『新世紀エヴァンゲリオン(エヴァ)』を見ることにしよう。

ここでいう『エヴァ』とは、1995年のテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』と、1998年の映画『DEATH(TRUE)^2/Air/まごころを、君に』の総称である。

さて、『エヴァ』の世界では、2つの隕石、すなわち「白き月」と「黒き月」が地球に衝突し、前者からアダムが、後者からリリスが生まれた。

さらに、アダムからシトが、リリスからヒトが生まれ、地球には4つの生命体が存在することになった。

時に、西暦2015年。ヒトは「人類補完計画」を発動する。これは、全てのシトを殲滅し、アダム、リリス、ヒトの三位一体によって「神に等しき力」を手に入れる計画である。

まず、ヒトはリリスを「黒き月」(箱根町)に幽閉し、これをアダムと偽った。その目的は、アダムとの接触を図るシトを誘き出し、迎撃することにあった。

したがって、箱根町には「使徒迎撃専用要塞都市」すなわち「第3新東京市」が建設され、国連直属非公開組織「特務機関ネルフ」の本部が設置された。

さらに、ネルフは「汎用ヒト型決戦兵器人造人間エヴァンゲリオン(エヴァ)」を建造したが、これはアダムまたはリリスのクローン体にヒトの心を宿した兵器である。

たとえば、エヴァ弐号機は、アダムのクローン体に惣流・キョウコ・ツェッペリン(母)の心を宿した機体であり、そのパイロットとして惣流・アスカ・ラングレー(子)が選ばれている。

また、エヴァ初号機は、リリスのクローン体に碇ユイ(母)の心を宿した機体であり、そのパイロットとして碇シンジ(子)が選ばれている。

ただし、エヴァ零号機は単なるリリスのクローン体であり、そのパイロットとして綾波レイ(ヒトのクローン体にリリスの心を宿した少女)が選ばれている。

なるほど、エヴァに「乗る」ということは、母親または自分の体に「還る」ということであり、言い換えれば「シンクロする」ということなのである。

ちなみに、渚カヲルはヒトのクローン体にアダムの心を宿した少年であり、アダムのクローン体と自由にシンクロすることが出来る。


エヴァンゲリオン


さて、エヴァの実戦投入により、ヒトは全てのシトを殲滅した。このとき、碇ゲンドウ(父)はアダムとの融合を果たしており、アダム、リリス、ヒト(ゲンドウ)の三位一体が成立しようとしていた。

ところが、レイがゲンドウからアダムを奪い、リリスと融合してシンジの元に向かった。ここに、アダム、リリス、ヒト(シンジ)の三位一体が成立し、シンジは「神に等しき力」を手に入れることになった。

ところで、『エヴァ』の世界におけるヒトは、その「心のかたち」によって「人のかたち」に形成された存在である。したがって、シンジ(神)が他人の存在を否定したとき、ヒトは「心のかたち」を失って「人のかたち」を失った。

シンジ「これは……。何もない空間。何もない世界。僕の他には何もない世界。僕がよく分からなくなっていく。自分がなくなっていく感じ。僕という存在が消えていく」
ユ イ「ここには、あなたしかいないからよ」
シンジ「僕しかいないから?」
ユ イ「自分以外の存在がないと、あなたは自分のかたちが分からないから」
シンジ「自分のかたち?」
ミサト「そう。他のヒトのかたちを見ることで、自分のかたちを知っている」
アスカ「他のヒトとの壁を見ることで、自分のかたちをイメージしている」
レ イ「あなたは、他のヒトがいないと自分が見えないの」
シンジ「他のヒトがいるから、自分がいられるんじゃないか。一人は、どこまで行っても一人じゃないか。世界はみんな僕だけだ!」
ミサト「他人との違いを認識することで、自分をかたどっているのね」
レ イ「一番最初の他人は、母親」
アスカ「母親は、あなたとは違う人間なのよ」
シンジ「そう、僕は僕だ。ただ、他のヒトたちが僕の心のかたちを作っているのも確かなんだ!」
ミサト「そうよ。碇シンジ君」
アスカ「やっと分かったの?バカシンジ!」


それでは、シンジが他人の存在を否定したのはなぜだろうか。それは、自分の存在を否定されることに恐怖を感じたからである。

シンジ「でも、みんな僕が嫌いじゃないのかな?」
アスカ「あんたバカァ?あんたが一人でそう思い込んでるだけじゃないの」
シンジ「でも、僕は僕が嫌いなんだ」
レ イ「自分が嫌いな人は、他人を好きに、信頼するように、なれないわ」
シンジ「僕は卑怯で、臆病で、ずるくて、弱虫で」
ミサト「自分が分かれば、優しくできるでしょう」
シンジ「僕は僕が嫌いだ。でも、好きになれるかもしれない。僕はここにいてもいいのかもしれない。そうだ、僕は僕でしかない。僕は僕だ。僕でいたい。僕はここにいたい。僕はここにいてもいいんだ!」


こうして、シンジは自己肯定を獲得し、他人の存在を肯定するようになる。

シンジ「あそこでは、嫌なことしかなかった気がする。だから、きっと逃げ出してもよかったんだ。でも、逃げたところにもいいことはなかった。だって僕がいないもの。誰もいないのと同じだもの」
カヲル「再びATフィールドが、君や他人を傷つけてもいいのかい?」
シンジ「かまわない。でも、僕の心の中にいる君たちは何?」
レ イ「希望なのよ。ヒトは互いに分かり合えるかもしれないということの」
カヲル「好きだ、という言葉とともにね」
シンジ「だけど、それは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。僕を見捨てるんだ。でも、僕はもう一度会いたいと思った。そのときの気持ちは本当だと思うから」


なるほど、『エヴァ』とは、自己不信から他人の存在を否定したシンジが、自己肯定を獲得し、他人の存在を肯定する物語なのである。

ところで、自己肯定を獲得したシンジは、アスカに「気持ち悪い」といわれてしまう。シンジはアスカに否定されたのだろうか。

シンジ(アスカの首を絞める)
アスカ(シンジの頬を撫でる)
シンジ(嗚咽をもらして泣く)
アスカ「気持ち悪い」


なるほど、この「気持ち悪い」もシンジに対する肯定として受け取ることができる。

まず、シンジがアスカの首を絞めたのはなぜか。それは、他人の存在を肯定したものの、やはり自分の存在を否定されることに恐怖を感じたからである。

シンジはアスカの首を絞めることで再び他人の存在を否定するが、アスカはシンジの頬を撫でた。すなわち、アスカはシンジを肯定したのである。

シンジは嗚咽をもらして泣き始めるが、その内面では「でも、みんな僕が嫌いじゃないのかな?」という絶望と「あんたバカァ?あんたが一人でそう思い込んでるだけじゃないの」という希望がせめぎ合っている。

そして「自分が嫌いな人は、他人を好きに、信頼するように、なれないわ」という福音によって「僕はここにいてもいいんだ!」という自己肯定が再び導かれるのである。

それでは、シンジに対して放たれた「気持ち悪い」とは何だろうか。それは「やっと分かったの?バカシンジ!」であり、いわば祝福の言葉なのだ。

そこで「気持ち悪い」のは、自己不信から他人の存在を否定したシンジのことであり、自己肯定を獲得したシンジは肯定されたのだといえるだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-85.html

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【エトジュン】東京裁判

   ↑  2015/07/25 (土)  カテゴリー: レジメ
Microsoft Word - 東京裁判-001
Microsoft Word - 東京裁判-002

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2015/07/25 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を見る

   ↑  2015/05/01 (金)  カテゴリー: エトジュン

人類が初めて経験した大規模な宇宙空間での戦争が、地球連邦政府とジオン公国のものだった。[…] あれから10年弱、宇宙世紀0087、地球に住む人々とスペースコロニーに住む人々との確執はいまだくすぶり、人々の魂もまた地球の重力から解放されていなかった」


地球に住む人々(アースノイド)は「ティターンズ」を結成し、スペースコロニーに住む人々(スペースノイド)は「エゥーゴ」を結成した。

また、地球連邦政府に敗れたジオン公国の残党が小惑星「アクシズ」に集結し、地球圏には3つの勢力が存在することになった。

このとき、シャアはアクシズに参加していたが、やがてクワトロ・バジーナを名乗り、エゥーゴに参加する。シャアの目的は、アムロと再会することにあった。

シャア「宇宙に上がる気にはなれないのか」
アムロ「あの無重力地帯の感覚は怖い」
シャア「ララァと会うのが怖いのだろう。宇宙に上がったら、また会ってしまうのではないかと怖がっている」
アムロ「いや」
シャア「生きている間に、生きている人間がしなければならないことがある。それを行うことが、死んだ者への手向けだ」
アムロ「しゃべるな」


「生きている間に、生きている人間がしなければならないこと」とは「ニュータイプがニュータイプとして生まれ出る道」を作ることだろう。シャアはアムロに「同志になれ」というのである。

ところで、シャアはエゥーゴの次期指導者として期待されていたが、これを拒否する。なぜなら、エゥーゴの指導者になることは、スペースノイドの指導者になることを意味するからだ。

シャアは「ニュータイプがニュータイプとして生まれ出る道」を作るために「オールドタイプは殲滅する」のであり、アースノイドとスペースノイドを区別しないのである。

また、シャアの父ジオンは「スペースノイド=ニュータイプ」という思想を唱えたが、デギンによって「アースノイド=オールドタイプ」という思想に書き換えられ、ジオン公国の独立戦争に利用されてしまった。

シャア「宇宙移民者の独立主権を唱えた父は宇宙の民をニュータイプのエリートだとしたところにデギンのつけ込む隙があった。宇宙移民者はエリートであるから地球に従う必要がないという論法にすり替えられたわけだ」


なるほど、シャアにとって「スペースノイド=ニュータイプ」という思想は危険であり、また「アースノイド=オールドタイプ」という思想は悪質なのである。

ところが、宇宙世紀0093、シャアは地球に対し、隕石落としを敢行する。アムロとの会話を抜き出してみよう。

アムロ「なんでこんな物を地球に落とす。これでは地球が寒くなって人が住めなくなる。核の冬が来るぞ」
シャア「地球に住む者は自分たちのことしか考えていない。だから抹殺すると宣言した」
アムロ「人が人に罰を与えるなどと」
シャア「私、シャア・アズナブルが粛清しようというのだ、アムロ」
アムロ「エゴだよ、それは!」
シャア「地球が持たん時が来ているのだ」


シャアは「オールドタイプは殲滅する」といい「アースノイドは粛清する」という。これは「アースノイド=オールドタイプ」という悪質な思想だが、シャアは変節したのだろうか。

アムロ「シャアは俺たちと一緒に反連邦政府の連中と戦ったが、あれで地球に残っている連中の実態がわかって、本当に嫌気がさしたんだぜ。それで、すべての決着をつける気になったんだよ」


なるほど、シャアはアースノイドに絶望し、変節したのである。こうして、シャアはアースノイドを粛清するため、地球に「アクシズ」を落下させる。

ナナイ「アクシズを地球にぶつけるだけで、地球は核の冬と同じ規模の被害を受けます。それは、どんな独裁者でもやったことがない悪行ですよ。それでいいのですか。シャア大佐」
シャア「いまさら説教はないぞ、ナナイ。私は、宇宙に出た人類の革新を信じている。しかし、人類全体をニュータイプにするためには、誰かが人類の業を背負わなければならない」


シャアは「宇宙に出た人類の革新を信じている」というが、これは明らかに「スペースノイド=ニュータイプ」という思想である。


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ところで、シャアの作戦を阻止するため、地球連邦軍のモビルスーツ隊が出撃した。なかでも、アムロの「ν(ニュー)ガンダム」は「アクシズ」に取り付き、これを押し返そうとした。

シャア「馬鹿なことはやめろ」
アムロ「やってみなければわからん」
シャア「正気か」
アムロ「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない」
シャア「アクシズの落下は始まっているんだぞ」
アムロ「νガンダムは伊達じゃない!」


もちろん、いくら「νガンダム」といえども、単体で隕石を押し返すことはできない。このとき「アクシズ」を押し返したのは「人の心の光」である。

ここでいう「人の心の光」とは、虹色に発光するフィールドのことである。ミノフスキー粒子には、虹色に発光し、格子状に整列する性質があるため、これを高濃度散布すれば「人の心の光」が生じるのである。

「νガンダム」には、パイロットの脳波を増幅し、ミノフスキー粒子に干渉できるようにする装置、すなわち「サイコ・フレーム」が搭載されており、これがオーバーロードすることで「人の心の光」が生じた。

シャア「そうか、しかし、このあたたかさを持った人間が地球さえ破壊するんだ。それを分かるんだよ、アムロ」
アムロ「分かってるよ。だから世界に人の心の光を見せなけりゃならないんだろ」


こうして、シャアの作戦は失敗に終わった。人類に絶望したシャアは、最後まで絶望しなかったアムロに敗北したのである。

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2015/05/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】枚方という呪/京都と大阪のあいだ【枚方三部作】

   ↑  2015/04/18 (土)  カテゴリー: 九森信造
映画『陰陽師』において、安倍晴明は、名前は呪(しゅ)であり、名付けることは、その名前の呪にかける、すなわち、その名前の持つ運命を与えることだといいました。

大阪第4の市である枚方市も、この「枚方」という名前を宿してから、名前の持つ運命を引き受けることになりました。


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まず、枚方という名前は、江戸時代に栄えた東海道56番目の宿場町、枚方宿(ひらかたしゅく)から取られたものです。この枚方宿は、現在の京阪枚方市駅から枚方公園駅まで続く街道筋に設置されていました。

人工的に生まれた宿場町

この枚方宿は、豊臣秀吉が築いた堤防「文禄堤」が、伏見城から大阪城までを結ぶ街道(京街道)として用いられるようになったことで発展しました。その後、徳川幕府の下で東海道の宿場町として指定されたのです。

「文禄堤」は、今で言えば公共事業にあたり、その上で生まれた枚方宿は人工的に作られたものだといえます。しかも、舟運が発達した淀川に沿っているため、上流の京都から下流の大阪へは船を利用する旅行者が多く、枚方宿は上りの利用者がほとんどの「片宿」となりました。

一方で、幕府指定の宿場町であるため、大名行列や幕府の役人に対しては非常に安価でサービスを提供するよう強いられ、慢性的な財政難に陥りました。

遊郭が支えた宿場町

その財政難に対して、宿場町の商人たちが何もしなかったわけではありません。舟に乗ったお客も取り込み、利用者を増やすためのアイデアが三十石船の唄に隠されています。

ここはどこじゃと 船頭衆に問えば 
ここは枚方 鍵屋浦
鍵屋浦には 碇はいらぬ 
三味や太鼓で 船止める


鍵屋というのは、今では歴史資料館として改修され、枚方宿の当時の様子を偲ばせる観光スポットとなった料亭のことです。

三味線や太鼓で船を止める、端的に言えば、芸者さんや遊郭が旅行客の足を止めていたのです。このことは、当時の枚方宿を利用した外国人の日記にも残っています。

ちなみに、第2部で取り上げたTSUTAYAの名前は、創業者の家が、かつて枚方宿の置屋であり、その屋号が「蔦屋」だったことから取られています。

宿場町のしわ寄せ

光があれば、影がある。枚方宿の活気を盛りたてるために作られた遊郭ですが、その遊女たちにまつわる、悲しい民話が残っています。

枚方宿の街道から少し山手のほうに入ったところにある台鏡寺。そこにいらっしゃる夜歩き地蔵様。地蔵様なのに足が汚れていることからその名前が付けられました。

どうして夜歩きをしていたかといえば、置屋に囲われた遊女たちがこの地蔵様を心のよりどころにして、夜な夜なお参りに来ており、その気持ちに寄り添うため、地蔵様も夜な夜な歩いていたからだそうです。

財政難の宿場町、そのしわ寄せが弱い立場の人々に押し寄せていたのです。

焼き討ちされた枚方寺内町

もう少し時代を遡りましょう。枚方宿に指定されたのは、岡村、岡新町、三矢、泥町でした。それよりも前に枚方の名前を冠していたのは、街道筋より一段高い地区でした。旧国名でいえば茨田郡枚方村、今の枚方上之町、枚方元町あたりになります。

この枚方元町には、浄土真宗大谷派の願生坊という寺院があります。戦国時代に入るまではこの願生坊(当時の名は順興寺)を中心とした寺内町として栄えていました。この願生坊は真宗の中興の祖である蓮如上人の息子、実如によって1514年に建立されました。

当時、浄土真宗の勢力は武将を脅かすほどであり、その中心が石山本願寺でした。今では、織田信長に焼き討ちされ、跡地に大阪城がそびえています。願生坊は当時、石山本願寺並の権限を与えられており、寺内町には大きな油屋が商売を営んでいました。

織田信長は、願生坊を焼き討ちしませんでしたが、油屋を焼き討ちし、その跡地に信長が懇意にしていた日蓮宗の大隆寺が建立されました。その大隆寺の改装工事の際、大量の油壺が見つかったのは知る人ぞ知る事実です。おそらくは、願生坊の勢力を衰えさせる狙いがあったのでしょう。

京都と大阪のあいだ

第1部で取り上げた、死者の供養の意味合いを持つ花火も、上流に京都という都があったがゆえに生まれました。さらに、現代につながるTSUTAYAも京都と大阪に挟まれた宿場町の遊郭から生まれました。

「枚方」という呪は、京都と大阪という二大都市の政治の狭間で翻弄され、時代の矛盾を抱えながらも、自分で立ち上がる努力を続けていく宿命を背負うことではないでしょうか。

そのメンタリティを歴史とともに伝えていくことこそ、真の意味での「まちおこし」なのだと思います。皆様、三部作お付き合いいただきありがとうございました。

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【エトジュン】『機動戦士ガンダム』を見る

   ↑  2015/03/01 (日)  カテゴリー: エトジュン

「人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって、既に半世紀が過ぎていた。地球の周りの巨大な人工都市は人類の第二の故郷となり、人々はそこで子を産み、育て、死んでいった」


地球の周りの巨大な人工都市(サイド)とは、複数の宇宙ステーション(スペースコロニー)によって構成される宇宙共同体のことである。人類は、地球連邦政府によるサイド1の建設をもって宇宙世紀を迎えた。

それから半世紀、地球から最も遠い人工都市サイド3はムンゾ自治共和国を名乗り、地球連邦政府からの独立を宣言する。

ムンゾには2つの政治勢力、すなわちジオン・ダイクンによるダイクン派と、デギン・ザビによるザビ派があった。建国当初はダイクン派優勢であり、ジオンが初代首相となった。

ところが、デギンがジオンを暗殺し、やがてザビ派優勢となる。次期首相となったデギンは共和制の廃止を宣言し、ジオンの遺志を継ぐという建前のもと、独裁国家ジオン公国を建国した。

ところで、ジオンには2人の遺児があった。キャスバル・ダイクンとアルテイシア・ダイクンである。

父ジオンを暗殺された兄妹は、ザビ派による迫害から逃れるため、地球へと向かった。キャスバルはエドワウ・マスを、アルテイシアはセイラ・マスを名乗った。

それから数年後、エドワウはシャア・アズナブルを名乗り、ジオン公国に入国する。シャアの目的は、デギンを筆頭とするザビ家を打倒し、父の仇を討つことにあった。

ハイスクールから士官学校に進んだシャアは、ジオン軍に入隊し、公国の中枢に迫ろうとする。そんな矢先、ジオン公国と地球連邦政府の間で戦争が起こった。

「宇宙世紀0079、地球から最も遠い宇宙都市サイド3はジオン公国を名乗り、地球連邦政府に独立戦争を挑んできた。この1ヶ月あまりの戦いでジオン公国と連邦軍は総人口の半分を死に至らしめた。人々は自らの行為に恐怖した。戦争は膠着状態に入り、8ヶ月あまりが過ぎた」


この戦争の最中、シャアは2人のエスパー(ニュータイプ)に出会う。アムロ・レイとララァ・スンである。

アムロは連邦軍のエースパイロットであり、ニュータイプ能力を発揮することで、シャアの軍勢を退けていた。シャアはアムロに対抗するため、ニュータイプの少女ララァを実戦に投入する。

ところで、シャアはララァを愛していた。シャアはララァを求め、ララァはそれに応えていた。テキサス・コロニーでの会話を抜き出してみよう。

ララァ「私には大佐を守っていきたいという情熱があります」
シャア「しかし、私はお前の才能を愛しているだけだ」
ララァ「それは構いません。大佐は男性でいらっしゃるから。ですから私は、女としての筋を通させてもらうのです。これを迷惑とは思わないでください」
シャア「強いな、ララァは。そういうララァは好きだ」
ララァ「ありがとうございます」


さて、アムロとララァの能力を目の当たりにしたシャアは、ニュータイプの存在に魅入られていく。セイラとの会話を抜き出してみよう。

セイラ「けど、この戦争で、いいえ、それ以前から人の革新は始まっていると思えるわ」
シャア「それが分かる人と分からぬ人がいるのだよ。だからオールドタイプは殲滅するのだ」

(中略)

セイラ「兄さん!あなたは何を考えているの?」
シャア「父の仇を討つ」
セイラ「嘘でしょ兄さん!兄さんは一人で何かをやろうとしてるようだけど、ニュータイプ1人の独善的な世づくりをすることはいけないわ!」
シャア「私はそんなに自惚れていない。ニュータイプがニュータイプとして生まれ出る道を作りたいだけだ」


シャアの目的は「ニュータイプ(エスパー)がニュータイプ(新人類)として生まれ出る道」を作ることであり、そのための手段として「オールドタイプ(旧人類)は殲滅する」という。

オールドタイプとは、ニュータイプを戦争の道具として利用しようとする人々、すなわち地球連邦政府およびジオン公国のことであり、それを打倒すること(父の仇を討つこと)は、もはや目的ではなく手段になっていた。


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さて、実戦に投入されたララァは、戦場でアムロとの邂逅を果たす。お互いに優れたニュータイプである彼らは、戦闘中の一瞬にすぎない時間のなかで会話を交わした。

ララァ「あなたには力がありすぎるのよ。あなたを倒さねばシャアが死ぬ」
アムロ「シャア?それが」
ララァ「あなたの来るのが遅すぎたのよ」
アムロ「遅すぎた?」
ララァ「なぜ?あなたは今になって現れたの?」

(中略)

アムロ「ではこの僕たちの出会いは何なんだ?」
ララァ「ああああ。なぜなの?なぜ遅れて私はあなたに出会ったのかしら?」
アムロ「運命だとしたらひどいもんだよな。残酷だよな」

(中略)

ララァ「出会えば分かりあえるのに。なぜこういうふうにしか会えないのかしら。あなたは私にとって遅すぎて」
アムロ「僕にとってあなたは突然すぎたんだ。人同士ってこんなものなんだよな」


ララァはアムロを求め、アムロはそれに応えた。シャアは割って入ろうとするが、アムロの反撃によって追い詰められてしまう。

シャアが殺されそうになったその刹那、ララァはシャアを庇って死ぬ。ララァはアムロの一撃によって殺されてしまうのだ。

こうして、シャアはララァを愛し、ララァはアムロを愛し、それでもシャアを庇って死んだ。もちろん、シャアとアムロは激しく対立する。ア・バオア・クーでの会話を抜き出してみよう。

アムロ「貴様がララァを戦いに引き込んだ」
シャア「それが許せんと言うのなら間違いだ。アムロくん」
アムロ「な、なに」
シャア「戦争がなければララァのニュータイプへの目覚めはなかった」
アムロ「それは理屈だ」
シャア「しかし、正しいものの見方だ」
アムロ「それ以上近づくと撃つぞ」
シャア「君は自分がいかに危険な人間か分かっていない。素直にニュータイプの在り様を示し過ぎた」
アムロ「だから何だというんだ」
シャア「人は流れに乗ればいい。だから私は君を殺す」


なるほど、シャアにとってアムロは「危険な人間」である。「ニュータイプがニュータイプとして生まれ出る道」を作るために「オールドタイプは殲滅する」というシャアにとって、オールドタイプ(地球連邦政府)の味方をするニュータイプ(アムロ)は「危険な人間」なのである。

セイラ「兄さん!やめてください!アムロに恨みがあるわけではないでしょう」
シャア「ララァを殺された」
セイラ「それはお互いさまよ」
シャア「なら、同志になれ。そうすればララァも喜ぶ」
アムロ「正気か」
セイラ「兄さん」
シャア「貴様を野放しにはできんのだ」


このとき、シャアはアムロの能力を管理して利用しようと考えている。「ニュータイプがニュータイプとして生まれ出る道」を作るために「同志になれ」というのである。もちろん、アムロはシャアを拒絶し、彼らは決別することになった。

「この日、宇宙世紀0080、この戦いの後、地球連邦政府とジオン共和国の間に終戦協定が結ばれた」

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-92.html

2015/03/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】『就職戦線異状なし』~若者の群像劇と就職活動と~

   ↑  2015/02/22 (日)  カテゴリー: レコメンド
まだ、就職活動が就活と略されていなかった頃、「就職戦線」を冠した映画がありました。その名も『就職戦線異状なし』です。


ssi.png


フジテレビの全盛期

製作はフジテレビ。この頃のフジテレビは、今のお台場ではなく河田町にありました。フジテレビ製作の27時間テレビで流されるような昔のVTRによく登場します。

例えば、タモリ・たけし・さんまのBIG3による河田町駐車場での大騒動はあの頃のフジテレビを象徴する出来事だったといえるでしょう。土曜日の8時にはめちゃイケではなく、さんまやたけしのひょうきん族やウッチャンナンチャンのやるやらが放送され、「売れている芸人はみんなフジテレビにいる」といわれた時代でした。

もちろん、ドラマも全盛期でした。『就職戦線異状なし』が上映された1991年の1月に、「月曜の夜は女性が街から消える」というトレンドを生み出し、月曜日の9時という時間枠を「月9」ブランドにした『東京ラブストーリー』、4月からは同じ時間帯に『101回目のプロポーズ』と、名実ともに伝説的なドラマを生み出していた時期でもありました。

したがって、この頃のフジテレビが製作し、バブル期の就職活動の狂乱を描いた映画が豪華絢爛にならないはずがありません。

主演は、『東京ラブストーリー』で主演を務めた織田裕二、ヒロインは「高校教師」で一躍ブームした仙道敦子。今では緒方直人と結婚しています。和久井映見、的場浩司、羽田美智子、坂上忍といった、今でも一線で活躍する俳優陣。全員が早稲田大学生という設定で行われる就職戦線協奏曲です。

就職戦線に参戦

オールスター映画は、キャストを集めたことだけで満足してしまい、ただただその出演者の丁々発止だけで時間を費やしてしまうことがあります。

本作も脚本がしっかりしていたとまではいいませんが、就職戦線を通じて描きたかったことは伝わるのではないかと思います。それは「リアル」な学生生活と「バーチャル」な就職戦線です。

本編では、歩けば内定が取れる時代に、あえてマスコミや広告代理店という人気の職種に挑戦する学生を描いており、出てくる企業はメディア関係がほとんどです。権利関係や諸々の業界の力学もあってか、本編では学生が就職する企業に関しては、伏字が使われています。テレビA日やS潮社など。ただ、建物の外観などはオリジナルを用いていることから、大体察しはつきます。

その中で象徴的なのは、就職活動をする学生が「自分vs企業」という構図を作り出していることです。フジテレビの面接や電通の試験という言葉に表れるように、企業を人格化し、企業に立ち向かう自分をセルフプロデュースしていきます。

RPG(ローブプレイングゲーム)で例えるなら、リクルートスーツという「戦闘服」、就職情報誌や書類の書き方といった「装備」を持って、合同説明会や模擬面接といった「ダンジョン」で経験を積み、就職偏差値(映画本編で登場する指標)が低い「小ボス」から偏差値の高い「ラスボス」までを戦いぬくわけです。その中に、仲間との協力や裏切りもあるかもしれません。

不思議なことに、彼らは自分の設定した「ラスボス」の就職偏差値が高ければ高いほど、それだけで、自分自身がすごいものであるかのように勘違いしてしまうようです。よくよく考えてみれば、私が就活していたときにも似たような傾向がありました。

しかし、現実はそう甘くはありません。

就職戦線から撤退

就活の終わりは第一志望の企業からの内定、あるいはそれ以外からの内定、または就職浪人、進学といったさまざまなカタチがあるでしょう。

本編では就活という「自分vs企業」のある意味「バーチャル」な戦いに、学生たち自身がとても「リアル」な理由やきっかけで終止符を打っていくことになります。

自分が選ぶ

物語のクライマックスに、こんな台詞があります。

「君が働きたい会社を選ぶんだよ」


現代にも共通していえることかもしれませんが、就職活動において、学生は「企業に選んでもらう」という気持ちが強いように見えます。

そのために、相手に評価される自分を作り上げ、表現し、毎回の面接後の連絡を震えて待たなければなりません。違う業種を受ける際は、また、別の自分を作り出さなければいけない。そんなことばかりしているから、3年も経たないうちに辞めてしまう若者も増えたのではないでしょうか。

時代を映す鏡

この作品のよさは、就職活動を学生群像劇として切り取ったこと以外にもあります。1991年の時代を生きる若者のアイテムや言葉、時代背景などを贅沢に取り入れています。

最近でいえば「モテキ」に取り込まれていますが、若者の周辺は絶えず変化しており、常に時代を映す鏡です。一種の記録映画としての性格を、そのエンターテイメント性の中に多分に含んでいる点と、あの日の学生気分を楽しめるという点で、この映画は1粒で2度美味しい映画というわけです。

「企業に選ばれることが戦いの勝利」という就職戦線の大前提は今もさほど変わっていないのではないでしょうか。25年前のバブルの頃の狂乱と大前提が変わっていないということは、失われた20年のあいだ、就職活動は根本のところで何も変わってこなかったということでしょう。

この映画を1つの羅針盤として「企業に選ばれる就職戦線」から離脱する勇気を持つのも1つかも知れません。そういったこともエンターテイメントとして示唆してくれる作品、オススメです。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-77.html

2015/02/22 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】枚方にTSUTAYAが帰ってくる!【枚方三部作】

   ↑  2015/01/01 (木)  カテゴリー: 九森信造
「楽しいことに用がある」

私が初めて心を動かされたキャッチコピーはこれでした。何より、私のふるさとである枚方発祥の企業がこのコピーを用いていたことが嬉しかったことを覚えています。


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1983年に枚方で産声を上げた蔦谷書店は30年の時を超え、TSUTAYAとなり、全国にチェーンを持つ企業となりました。

東京は代官山の旗艦店が話題を集め、佐賀県は武雄市の図書館がマスコミの注目を浴び、枚方とTSUTAYAの縁は「創業の地」以外何も残っていないように、少なくとも一市民としては感じていました。

そんな枚方にTSUTAYAが帰ってきます。その意義を、CCC(TSUTAYAの運営会社)社長、増田宗昭氏の『知的資本論』をもとに探ってみようと思います。

「サードステージ」を勝ち抜くために

増田氏は今の消費社会を「サードステージ」と名づけています。

「ファーストステージ」はモノが不足していて、モノを作れば売れる時代。日本で言えば、戦後まもなくのイメージでしょうか。

そうして、ある程度モノが満たされると次は、モノを集めた場所、プラットフォームが重要になってくる。それが「セカンドステージ」だそうです。プラットフォームは百貨店やディスカウントショップ、ネットでは楽天市場やアマゾンなどのイメージでしょう。

「サードステージ」はプラットフォーム自体に価値があるのではなく、顧客にとって何らかの「価値」を提案することが重要だそうです。その「提案」こそが「デザイン」だと増田氏は述べています。

「暇つぶし」を売る時代

増田氏は本書の中で、「セカンドステージ」までの利便性を追い求めた消費だけでは幸福になりづらいと述べています。言うまでもなく、増田氏は「サードステージ」には人々を幸福にする力があると思っているのでしょう。

しかし、私は、もう少し違った考え方をしています。乱暴ではありますが、あえてわかりやすく、「セカンドステージ」までを「20世紀型」、「サードステージ」を「21世紀型」と名づけて対比してみましょう。

「20世紀型」はモノやサービスが便利になって、時間の余裕が生み出されていく消費でした。掃除という家事だけを見ても、ほうきから掃除機、充電式クリーナー、さらにはルンバといった自動ロボット型掃除機まで。その便利さを買うために、人は朝から晩まで働き、時間を換金して、暇を作ってきたわけです。

そうして便利になった結果、人々は余った時間を何に使うか、つまり「暇つぶし」に戸惑うようになります。次第にモノづくりよりも「暇つぶし」のコンテンツを提供する産業が注目されるようになりました。

20世紀までは無料で24時間アクセスできるテレビが「暇つぶし」のコンテンツとして圧倒的な地位を占めていましたが、携帯電話やスマートフォンの普及につれて、余った時間を使う「暇つぶし」の主役にウェブ上のサービスが台頭してきました。

上に述べた「20世紀型」の帰結として「21世紀型」は消費者に対していかに「暇つぶし」を提供するかが重要となりました。パズドラなどの課金型オンラインゲームなどはまさにその典型だと言えるでしょう。

無限の「20世紀型」、有限の「21世紀型」

さらに言えば、「20世紀型」と「21世紀型」の大きな違いは需要が有限か無限かという点です。「20世紀型」の場合はイノベーションが続けば、理論としては無限に需要が創出できます。一方で、「21世紀型」は、「暇」つまり「個人の時間」がイコール需要です。これに関しては、1人当たりの時間は1日24時間と定められており、経済成長で増やすことはできません。

「21世紀型」で重要なことは、顧客の「暇」を囲い込むことです。ライバルには顧客の「暇」を取り合う全て、ゲームやテーマパークだけでなく、学校や職場なども含まれるかもしれません。

増田氏が示す幸福は、この「暇」を囲い込んだ上で、いかにして充実させるかということにかかっています。「暇」を消費するだけでなく、より質の高いものにすることを本書では「自分への投資」という言葉で表現しています。

「サードステージ」とは、あくまでも「21世紀型」のルールの中で、充実した「暇つぶし」を手に入れることができる社会だと言えます。

この状況に対して、TSUTAYAは「コンシェルジュ」と「ビッグデータ」を使いこなし対応するそうです。

「顧客」を囲い込む

TSUTAYAが用いる「ビッグデータ」はTポイント会員のデータです。ポイントサービスを用いて、5000万人のさまざまなデータを用いた統計分析を行っていきます。その中から、教養をもった「コンシェルジュ」がさまざまなライフスタイルを提案する、つまり、「顧客」1人ひとりの時間の使い方を提案していくわけです。

確かに今年の3月、BABYMETALの武道館ライブを見に行った際、代官山のTSUTAYAの視察に行ったところ「富山フェア」が行われていました。推測ではありますが「ビッグデータ」からトレンドの「富山」を選択して、「コンシェルジュ」の“教養”から生まれる多種多様なアイデアを代官山に並べたのでしょう。

「居心地」のよい場所

本書によれば、書籍や映画を購入するのは、そのモノを買うのではなく、作品に影響される自分への投資なのです。つまりライフスタイルの変化を買っているのです。

そして、コンシェルジュの「提案」を受け、「どういう自分になりたいか」をのんびり選択できる場を作ることが重要だといいます。

極端に言えば、何の目的もなく、ぶらりと来ても、1日時間をつぶすことができる「居心地」の良い空間を作ることこそがTSUTAYAの使命なのです。

確かに代官山のTSUTAYAに行った際も、増田氏が「森の中の図書館をイメージした」というように、いい意味で時間に追われていない、ゆったりとした空間で利用者が思い思いの時間を過ごしていました。

少し、実務よりの話になりますが、小売業の売上を上げる方法として、店での滞留時間を延ばす方法があります。例えば、生活必需品や生鮮食品を店の奥に配置したり、ドンキ・ホーテのように店の棚配置を入り組んだものにしたり、さまざまな工夫が行われています。

同じように、TSUTAYAの「居心地」の良い空間は顧客の滞留時間を延ばすことになりますが、商品の配置による構造的なものではなく、顧客が自発的に滞留するという点が大きな違いだといえるでしょう。

「ぶらりする街」

話をはじめに戻しまして、2016年、枚方にTSUTAYAが帰ってきます。TSUTAYAを中心に考えたとき、京阪枚方市駅前は「ぶらりする街」になるかもしれません。

当てもなくぶらりとすれば、新しい出逢いが待っている。それは人かもしれないし、書籍かもしれないし、もっと違ったものかもしれない。そして、出逢いを経験した人は顧客となり、リピーターとなっていくでしょう。

大事なことは「何か面白いことに出会いたい」という私たちの気持ち、そして、「これは面白い」と感じることのできる感性といえるかもしれません。

最後に、増田氏が創業当時に書いた文章の一部を引用して筆を起きたいと思います。

「若者文化の拠点として、枚方市駅からイズミヤの通りがアメリカの西海岸のようなコミュニケーションの場として発展する為の起爆剤になりたく思う」


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2015/01/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】枚方花火大会復活の機運によせて【枚方三部作】

   ↑  2014/12/01 (月)  カテゴリー: 九森信造
2015年、大阪府は枚方市の淀川河川敷において、2003年以来となる花火大会復活の機運が高まっています。


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先に断っておきますが、私自身は、まったく利害関係の外にあり、一市民としての関わり以上のことはありません。しかし、同じ枚方に縁があり、7年ほど前に青年会議所の方と花火大会に関して、議論をたたかわせたこともあります。

今回は、2015年の花火復活の動きに合わせて、私の知る限りの情報をもとに、枚方で復活する花火大会の意義を申し述べたいと思います。

花火大会中止のきっかけは何か?

花火大会中止のきっかけは主に2つあげられます。それは、予算と安全でした。

枚方市長が2012年8月号の広報誌に寄せている文章によれば、中止した直接的な原因は2001年におきた明石花火大会歩道橋事故だったそうです。

2001年の事故を受け、警備体制を強化するもトラブルが続出し、これ以上の予算をかけて警備を増員しても、安全が確保できないであろうという判断があったようです。あくまで推測ですが、警察側からの警備計画強化の要請もあったのでしょう。

そういった事情を背景にして、2003年に枚方の花火大会は一旦ピリオドを打つことになりました。

もう1度復活させる意義は何か?

一般論ではありますが、1度途絶えていたものを復活させるには非常にエネルギーが必要です。さらにいえば、周囲の“雑音”を納得させるだけの志や意義を語ることのできる人物も必要でしょう。

その上で、ただ単に「イベント」として復活するのではなく、「なぜ、淀川か?」「なぜ、枚方か?」という、見過ごされがちですが物事の根本に迫る自問自答を繰り返さなければならないでしょう。

そして、枚方花火大会の議論をする際に、外してはいけないことがあります。それは、日本における淀川の特異性です。

淀川に隠されたおどろおどろしい歴史

淀川は日本一の大きさを誇る琵琶湖から流れ出す唯一の河川です。滋賀から、京都、大阪へとさまざまな支流を持ち、大阪湾へと流れ込んでいきます。

日本の河川では下流域に大都市が広がることが常でしたが、淀川の場合は、少し特殊で、京都と大阪という昔からの大都市を流れています。

人口も多かったため、急な大雨や台風などで、不運にも流されていく人も多かったのでしょう。特に京都で巻き込まれた水死体は、枚方、そして川を挟んだ向かいの高槻の河川敷に流れつくことも多かったようです。

それを証明するかのように、郷土史家の宇津木秀甫先生が高槻に残る民話をまとめた『高槻物語』には「土左衛門」という話が伝えられています。

本来は、文章を楽しんでいただき、おどろおどろしさを感じてほしいのですが、今回は簡単にまとめておきます。

・江戸の頃、水死体が淀川の沿岸部に流れ着くことがよくあった。
・たいていの場合、身元がわからず、水死体を見つけた人は、そっと下流に流していた。
・一方で、とんでもない商売を思いつく商人もいた。
・その商売は、水死体を引き上げ、手押し車に乗せ、あたかも病人を運ぶふりをする。
・そして、武家屋敷の前で、「試し切りはいらんかね」と売り文句をいうと、武家屋敷の扉が開く。
・その後、水死体は武士の試し切りに使われ、持ってきた商売人たちは武士から礼金をもらう。
・試し切りに使われた水死体は商人たちによって、淀川に捨てられ、下流へと流されていく。


名も無き水死体を下流へ流すだけでなく、商売に使っていた人間がいたというのです。

煌びやかな花火にこめられた思い

日本全国に花火大会があります。有名な花火大会でも、その裏に歴史の非情さの中で残念ながらも亡くなった方々を慰霊する意味合いを持ったものが数多く存在します。

隅田川花火大会は1732年、徳川吉宗が将軍だったころに起こった飢饉で亡くなった人々の慰霊のために始まり、幾度かの中断を経て今日に至ります。

1945年8月1日、あの戦争で起きた長岡空襲で新潟県長岡市は大打撃を受けました。戦争が終わって3年後の1948年、もう一度、街が立ち上げるきっかけとして始められたのが、長岡花火大会でした。

今でも、空襲のあった8月1日の午後10時半には「白菊」という花火が慰霊のために打ち上げられています。

有名どころだけでも、煌びやかな花火は過去の非情な歴史と結びつき、慰霊という意味合いがこめられています。花火大会の運営のモチベーションの奥底には大会の古今東西にかわらず、そのような思いがあるのでしょう。言わずもがな、淀川の花火大会も同じです。

あの世に光を届ける「送り手」として

先日、小林秀雄に関するエントリーのなかで「歴史とは上手に思い出すことである」という言葉を引用しました。

花火大会の記憶は人それぞれでしょう。在りし日の父親に手を連れられた記憶、学生のころ友人たちとはしゃいだ記憶、恋人と初めて2人で見た記憶、子どもを連れて家族で見た記憶。

そういった「受け手」としての花火大会の記憶が重要なのはもちろんです。

一方で、2015年に花火大会が復活した際は、「送り手」から、淀川の歴史と鎮魂のメッセージを発信することも大事ではないでしょうか。「送り手」とは、花火大会の運営側に参加することだけを意味しません。花火を見ながら、亡くなった家族や友人、さらには災害や戦争で亡くなった方のことを思うことで「送り手」となるのです。

その煌びやかさに心奪われて、「この世」を謳歌するだけではなく、その日だけでも亡き人々に思いをはせる「送り手」が増えれば、花火大会の「志」である慰霊や鎮魂の意味合いはより強いものになるでしょう。

夏の夜空にかがやく花火は「この世」から「あの世」を照らすものにしたいものです。

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【エトジュン】二村ヒトシ『なぜあなたは~好きになるのか』を読む

   ↑  2014/11/01 (土)  カテゴリー: エトジュン
二村ヒトシの『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を紹介します。本書のテーマは「ナルシシズム」と「自己受容」です。


なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか (文庫ぎんが堂)


まずは「ナルシシズム」について、それは自分の「心の穴」を埋めようとする行為です。

筆者の考えでは、その人の「心の穴」は、その人の「心の型」によって決まります(ドーナツの穴はドーナツの型によって決まります)。

いま仮に「わたしが好き/わたしが嫌い」の縦軸と「みんなの意見が大事/わたしの意見が大事」の横軸で4象限を作ってみましょう。


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すると、4つのうちの1つのタイプを「心の型」、その対極にあるタイプを「心の穴」として捉えることが出来ます。

たとえば、Cタイプの「心の型」には、Aタイプの「心の穴」が空いているのです。

そして、自分の「心の穴」を埋めようとする人は、それと同じタイプの「心の型」を欲望するでしょう。

たとえば、Cタイプの「心の型」は、Aタイプの「心の型」を欲望するのです。

二村さんは、自分の「心の穴」を埋めるために、他人の「心の型」を欲望するのが「恋」だといいます。

次に「自己受容」について、それは自分の「心の型」を受容する行為です。

そして、自分の「心の型」を受容する人は、それと同じタイプの「心の型」を受容するでしょう。

二村さんは、自分の「心の型」を受容するように、他人の「心の型」を受容するのが「愛」だといいます。

それでは、本書のタイトル「なぜあなたは『愛してくれない人』を好きになるのか」を考えてみましょう。

まず、人を好きになるのは、自分の「心の穴」を埋めようとするからです。

たとえば、Cタイプの「心の型」は、Aタイプの「心の型」に恋をします。

ところが、Aタイプの「心の型」は、Cタイプの「心の型」を受容しません。

すなわち、Aタイプの「心の型」は、Cタイプの「心の型」を愛してくれないのです。

こうして、CタイプはAタイプに恋をするのに、AタイプはCタイプを愛してくれないので「『愛してくれない人』を好きになる」ということになるのです。

それでは、相思相愛のカップルになるには、どうすればよいのでしょうか。

答えは簡単で、まずは自分の「心の型」を受容し、それから相手の「心の型」を受容すればよいのです。

本書には「自分を受容できるようになるための7つの方法」というセクションがありますが、それは読んでのお楽しみです。

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【九森信造】あなたは「上手に思い出すこと」ができますか?

   ↑  2014/10/01 (水)  カテゴリー: 九森信造
少し前に亡くなった、作家の井上ひさしの言葉に「つるつる言葉」というものがありました。詳細は忘れましたが、凹凸のある物体の表面が、使い古されて摩耗し「つるつる」になってしまうように、人々が口々に使うことによって、実感がともなわなくなってしまった言葉のことを指します。

たしか東日本大震災の際に「つながり」や「きずな」という言葉が連呼される風潮を揶揄するために朝日新聞が使っていたのを覚えています。

「つるつる」化してしまう理由

「つるつる言葉」という言い方はしていませんが、小林秀雄は『学生との対話』の中で興味深い言葉を残しています。

「信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人のごとく知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない、そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。」


私なりに解釈すれば、例えば「つながり」という言葉を使うときに、自分の周囲や実体験に置き換えて話ができ、なおかつ一定の批判に耐えうる説明が可能か否か。つまり、自分の信じるレベルまで昇華できているかという問題です。

小林秀雄はこうも語ります。

「自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅を利かせるのです。」


自分流に信じていないから、ある意味では上っ面のイデオロギーで人々はカテゴライズされてしまうわけです。では、頑なに人々との交流を拒んでいればいいのかといえば、そうではありません。

「自分に都合のいいことだけを考えるのがインテリというものなのです。インテリには反省がないのです。反省がないということは、信ずる心、信ずる能力を失ったということなのです。」


独りよがりでいいはずはないのです。常に、周囲の意見に耳を傾け、自問自答を繰り返し、変えるべきこと、変えざるべきことの色分けをしていくことこそ、重要なのです。

知識と経験の二重奏

ここで、議論を進めるために、「知ること」によって深められるものは「知識」、「信ずること」で深まっていくものは「経験」と置き換えてみます。

皆さん、小学校でリットルやセンチメートルなどの単位を勉強したことを覚えているでしょうか。私は単位の勉強をした際、スーパーで見かけた牛乳パックに「1000ml」という表示を見て父親に「これって1リットルのこと?」と質問したことを覚えています。

しかし、以前、小学生に単位の勉強を教えているとき、牛乳パックに表記されている「1000ml」が何リットルかと尋ねると、小学生は答えに困っていました。コンビニやスーパーでほぼ毎日のように目にしておきながら、牛乳パックの1000mlが座学で学んだ単位の勉強と結びついていないのです。

座学で学んだことを「知識」とすれば、スーパーやコンビニで牛乳パックを見かけたことは「経験」となるでしょう。

読書をするときも、単語の「国語辞書的」な「知識」がなければ文意を掴むことができない一方で、作中で筆者の思い描いている光景や登場人物の心境などを想像するとき、今までの人生で得てきた「経験」をベースにしないとうまくいきません。

コミュニケーションの基盤になるべき共通の「経験」

近年では、世代を超えた交流が少なくなっていることが問題視されています。1つの問題としては、特に戦後における科学技術の急速な発展により、上の世代と下の世代の感じてきたことが全く違うがゆえに、共通の話題などが持てず、交流が減っているという考えです。また、若い世代のコミュニケーション能力不足に責任を転嫁されることもよくあります。

私は、コミュニケーションの基礎となるべき、世代間の共通の「経験」が圧倒的に不足しているのだと思います。では、共通の「経験」とは何かと問われれば、私の答えは伝統に則った行事、たとえば、町内会・地域行事の運営への参加だと思っています。

慣習になってしまった行事は消えていく

小林秀雄は伝統と慣習(習慣)の違いを次のように述べています。

「傳統と習慣とはよく似てをります。併し、この二つは異るのである。僕等が自覺せず、無意識なところで、習慣の力は最大なのでありますが、傳統は、努力と自覺とに待たねば決して復活するものではないのであります。」


近年では、町内会や地域コミュニティの弱体化が問題視されています。地域行事の参加者も運営者も高齢化し、動員力が落ちていると言われています。表面的には、娯楽が多様化し、旧来の行事に魅力が感じられなくなったのかもしれません。

しかし、小林の議論を援用すれば、違う視点が必要なのではないでしょうか。つまり、私たちがこれまでの伝統を「形骸化」させて、「習慣」にしてしまわないために、努力と自覚を持って引き継いでいかなければいかないのではないでしょうか。

このことを、行事や何らかの事業に関わる人々は意識しなければいけないと思います。では、具体的にどうすればよいのか。最後に小林秀雄の珠玉の言葉を引いて終わりましょう。

「歴史とは上手に思い出すことである。」


悠久の時間を越えて続く行事の運営に参加することこそ、「上手に思い出すこと」の一助になるのかもしれません。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-68.html

2014/10/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】二村ヒトシ『すべてはモテるためである』を読む

   ↑  2014/09/01 (月)  カテゴリー: エトジュン
二村ヒトシの『すべてはモテるためである』を紹介します。


すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)


本書は「なぜモテないかというと、それは、あなたがキモチワルいからでしょう」という「まえがき」から始まります。そして「キモチワルい人」を以下の4つに分類します。


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A①:かんちがいしてるバカ
A②:臆病なのにバカのふりをしている
B①:バカなのに臆病
B②:考えすぎて臆病

本書によれば、バカとは「ポジティブな自意識過剰」のことであり、臆病とは「ネガティブな自意識過剰」のことです。そうすると「B①」が気になるのですが、バカと臆病は両立するのでしょうか。

そこでヒントになるのが「A②」です。これは「(中身は)臆病なのに(外見は)バカのふりをしている」ということであり、中身と外見を分けることで、バカと臆病を両立させています。

これに習えば「B①」は「バカなのに臆病のふりをしている」ということになるでしょう。表に当てはめれば以下の通りです。


sbmt_02.png


さらに、表の縦軸(上下)は外見の問題として、横軸(左右)は中身の問題として整理することができます。


sbmt_03.png


そして、外見は行動の問題として、中身は性格の問題として整理することができるでしょう。


sbmt_04.png


最後に、右下の4マスを整理します。


sbmt_05.png


これで「キモチワルい人」を整理することができました。

ところで、本書のテーマは「バカ」と「臆病」を治すことで「キモチワルい人」を卒業することです。

たとえば「バカを治す」というセクションでは「はたしてその女性が、あなたと同じ土俵に乗ってるのかどうか」について、もう少し臆病になれといいます。

また「臆病を治す」というセクションでは「適度に自信をもつ」ために「自分の居場所」をつくれといいます。自分の居場所といっても、いわゆる仲間のことではありません。それは読んでのお楽しみです。

その他にも、ちゃんと人の話を聴くこと、変わることを恐れないこと、自分を押し付けず、ただ見せることの効用が説かれますが、これも読んでのお楽しみ。第4章「どうやって『恋愛』するのか」は必読です。

國分功一郎さんによれば「この本は、単なるモテ本ではない。実践的かつ、真面目な倫理学の本である」とのことですが、まったくその通りだと思います。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-65.html

2014/09/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】恋と愛の違いについて結論が出ました。

   ↑  2014/08/08 (金)  カテゴリー: エトジュン
恋愛はギブアンドテイクの関係であり、私のギブは相手のテイクによって成就します。テイクはギブを成就させる行為なのです。

恋愛における4つの行為「あたえる、うけとる、もとめる、こたえる」をギブアンドテイクで表せば「あたえる(ギブ)、うけとる(テイク)、もとめる(テイク)、こたえる(ギブ)」ということになるでしょう。

さて、私たちは恋愛の最中で「ギブする喜び」を感じています。あたえる喜び、こたえる喜びともいえるでしょう。

そしてそれは、相手のテイクが私のギブを成就させることで生じています。テイクはギブを成就させ「ギブする喜び」を「あたえる」行為なのです。

また、筆者の考えでは、ギブすることは「恋すること」であり、テイクすることは「愛すること」です。私のギブ(恋)は、相手のテイク(愛)によって成就するのです。

それでは、恋愛の具体的な例として『新世紀エヴァンゲリオン(エヴァ)』と『魔法少女まどか☆マギカ(まどマギ)』を見てみましょう。

前者の主題は「あれ?アスカって俺のこと好きだったのか」であり、後者の主題は「あれ?ほむらちゃんって俺のこと好きだったのか。ありがとう」でした。

『まどマギ』には「ありがとう(うけとる)」がありました。この一点において「まどマギはエヴァを超えた」といえるでしょう。

さらに、映画『魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』の主題は「もう一度あなたに会いたい(もとめる)」でした。

このように『まどマギ』は、ふたつのテイク(うけとる、もとめる)を描いた作品だといえます。筆者はそれを愛と呼んでいるのです。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-48.html

2014/08/08 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】『ヘンダーランドの大冒険』~助っ人から当事者へ~

   ↑  2014/08/01 (金)  カテゴリー: レコメンド
本や映画、アニメ、ドラマ、演劇、世の中には溢れるほどの作品が存在しています。にも関わらず、どうして私たちは同じ作品を見返すのでしょうか。

小林秀雄は、読書することは「自己との対話」だといいました。私たちは、初めて作品を見た当時の自分と出会うために同じ作品を見返すのでしょう。

今回の評論は、幼き日の私と今日の私が邂逅して生まれたものです。

助っ人から当事者へ

今回紹介する「ヘンダーランドの大冒険」はクレヨンしんちゃんの劇場版4作目です。


映画 クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険 [DVD]


劇場で見た当時は、これまでの3部作とは違うシリアスな展開にどことなく違和感を覚えました。

あらためて比較してみると、戦う理由がこれまでとは違います。

1作目→「アクション戦士」として選ばれたから
2作目→秘宝を手に入れるための鍵として選ばれたから
3作目→漂着した時空警察に協力するため

いずれも、戦いに巻き込まれていくパターンでした。いうなれば「助っ人」だったのです。

それに対して、本作では野原家はトラブルの蚊帳の外にいました。そして、ヘンダーランドで敵と遭遇するのです。

さて、しんのすけは、トッテマという巻き人形の女の子に出会います。

トッテマは、背格好がしんのすけより少し大きいぐらい。設定としては、しんのすけよりも少し年上の女の子です。

しかし、人間ではないということでハンデを抱えていました。そこで、人間のしんのすけに対して、協力してほしいと頼みます。

これまでは、メインで戦うのはしんのすけではなく、他の誰かであり、それは大人でした。

3作品目のラスボス、ピエール・ジョコマンとの対決ではしんのすけが1対1で対峙していますが、戦ったのは大人に変身したしんのすけであり、5歳児のしんのすけではありませんでした。

トッテマは事情を説明し、協力を頼みますが、しんのすけは頑なに拒否します。直感的に自分がメインとなって戦うことの恐怖を感じたのでしょう。

園児レベルの戦い

しかし、今回は誰も守ってくれません。自分が立ち向かわなければならない戦いがやってきたのです。

そして、しんのすけは戦う決意をし、彼の戦いが始まります。

その目線で見ると、無理のある設定にも納得がいきます。アクション仮面やカンタムロボがどうしてあの大きさなのか。どうして最後の決戦があの内容だったのか。

しんのすけがルールを把握でき、メインとなる戦いでなければならなかったからです。

失うことの怖さ

クライマックス直前に父親のひろしが、母親のみさえにこう語ります。

「みさえ、今俺達の息子が少し大人になったところだ」

この一言が象徴していることは、本編を見ればお分かりになると思います。ネタバレしない程度に言えば、しんのすけ自身が、初めて誰かを失う悲しさを体感したのです。

本作では、失うことの悲しさを感じることが、大人になることとして描かれています。

「オラ、この勝負には絶対勝つぞ!!」

このキャッチコピーは、本作がしんのすけの戦いであることを象徴しています。

トラブルというのは、向こうからやってくるものです。誰かに戦ってもらうのもよいですが、自分が「当事者」となって戦うことも必要です。

その中で出会いや別れを繰り返し、一人の人物が出来上がっていくのです。

また、劇場版の5作目からは妹のひまわりが登場します。それ以降は、男の子としての役割だけではなく、兄としての役割がしんのすけに課せられます。

しんのすけは、4作目となるこの映画の中で出会いと別れを経験し、ようやく兄となる準備を整えたのかもしれません。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-64.html

2014/08/01 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】マイケル・ジョーダンが神になった日:悪童たちの美学

   ↑  2014/06/15 (日)  カテゴリー: 九森信造
近年の流行りか、人を褒める際に「○○神」や「神○○」といったように、神という言葉を連発する表現をよく目にします。

八百万の「カミ」という世界観をもつ日本ならではの表現かもしれません。

ところで、特定の分野では「神」と評価されていても、他の業界や一般的な知名度は低いことがしばしば見受けられます。

しかし、万人から「神」と呼ばれる条件をクリアし、アメリカのスポーツに過ぎなかったバスケットボールの人気を世界レベルにまで引き上げ、サブカルチャーに影響を与えた人物がいました。マイケル・ジョーダンです。


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ジョーダンの神っぷり

ジョーダンが神と呼ばれる所以を簡単にお伝えしましょう。

・NBA3連覇を2度達成している
・1度目の3連覇のあと、引退してメジャーリーグに挑戦
・メジャーをあきらめて、NBAに復帰し、2度目の3連覇
・ちなみに、これまで3連覇を達成したのは3チームだけ

もちろん、バスケットボールは1人でするものではありませんが、ジョーダンがいなければ、シカゴ・ブルズの躍進もなかったでしょう。

しかし、ジョーダンはNBAデビュー当時から神だったわけではありません。

神話においては、試練を乗り越え、ようやく「神」と名乗る資格を得ることができます。ジョーダンもさまざまな試練を乗り越えてきました。

そして、彼が神になった日、それは同時に苦難を与え続けてきた悪童たち、バッドボーイズの終わりの日でもありました。

1991年5月27日

イースタンカンファレンス・ファイナルの第4戦。デトロイト・ピストンズはそれまで2連覇を達成しており、史上2チーム目の3連覇をかけた大事なシリーズでした。

対戦相手は、マイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズ。

当時のデトロイト・ピストンズは「バッドボーイズ」と呼ばれ、そのプレイスタイルは必要以上に乱暴で、場合によっては汚い手段も使っていました。ある意味では、リーグを代表するヒール(悪役)だったのです。

「バッドボーイズ」は、頭角を現し始めたジョーダンに対して、特別なディフェンスを仕掛けます。

ゴール前に切り込んできたジョーダンに対して、2人、3人、場合によっては4人がかりになって、しかもファールもためらわずに止める戦法を作り上げました。名づけて「ジョーダン・ルール」です。


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「ジョーダン・ルール」の皮肉

「バッドボーイズ」には、ブルズを抑えるにはジョーダンを抑えればよいという考えがありました。しかし、この考えには落とし穴が2つあります。

1つ目は、シカゴ・ブルズのチームレベルの上昇を考えていなかったこと。実際、フィルジャクソンをコーチに迎え、トライアングル・オフェンスを導入して以降、メキメキとレベルを上げていきました。

2つ目は「バッドボーイズ」自体がいずれは衰えていくということ。残酷にも、人間は年を取り、何らかの衰えが発生します。

「バッドボーイズ」の全盛期が80年代中頃から後半なのに対して、ジョーダンがデビューしたのは1984年。いずれは取って代わられる運命だったのです。

そしてそのときが、1991年5月27日でした。

自ら幕を閉じた悪童たち

再び、イースタンカンファレンス・ファイナルの第4戦。デトロイト・ピストンズは、ジョーダン率いるシカゴ・ブルズと対戦しました。

しかし、これまでの「ジョーダン・ルール」では全く歯が立たない。

4戦先勝した方が先に進めるシリーズにおいて、デトロイト・ピストンズは3連敗。今日負ければ、屈辱のスウィープ(1勝もできずにシリーズを終えること)でした。

第4戦も残り10秒を切ったところ、デトロイト・ピストンズはタイムアウトを取ります。20点近い点差をつけられ、もはや試合は決まったも同然でした。

すると「バッドボーイズ」はジャージを着用し、そのまま控え室へ戻ってしまいます。試合は続行不可能となり、結果はシカゴ・ブルズの勝利となりました。

スポーツマンシップを尊重すれば、彼らの行為は許されないものかもしれません。しかし、私の見方は少し違います。

悪童たちが貫いた美学

組織や業界の中では、時代が進むにつれて世代交代がつきものです。忘れてはいけないのは、時代には必ず終わりが来るということです。

新世代に対して「壁」として立ちはだかりながらも、その役割を終えたときには自ら幕を閉じる。1つの「美学」としては十分に成り立ちうるし、理解できるものだと私は考えています。

当時のデトロイト・ピストンズのファンたちは、タイムアウト中に控え室へ戻っていく選手たちにハイタッチを求め、送り出していきました。

ある意味では、ジョーダンという「神」に最大の試練を与え続けた「バッドボーイズ」へのお疲れ様の意味合いがあったのでしょう。

英雄やヒーローの影にはいつでも悲劇があります。悪童たちは美学を貫きながら、その大仕事をやり遂げた稀有な存在だったのではないでしょうか。

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2014/06/15 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】嫌われる勇気:嫌われることで自由になれる

   ↑  2014/05/25 (日)  カテゴリー: 九森信造
ネットには教養を、リアルには感動を。
このテーマをもとに「無頼派メガネ」を展開しています。

さて、皆さんは本や誰かの言葉に感動して目から鱗、もしくは耳から鱗が落ちた経験はないでしょうか?

私、九森は久しぶりに目から鱗が落ちる本に出会いました。今回は、まとまりがないうえに長い書評となりますが、お付き合いいただければ幸いです。

『嫌われる勇気』

フロイトやユングに並ぶ心理学の権威とされながら、日本では無名に近いアルフレッド・アドラー。彼はトラウマの存在を否定したうえで「すべての悩みは対人関係によるものだ」と断言します。本書はアドラー心理学をベースにした創作対話編です。


嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え


フロイトの限界

科学的に考えれば、過去の「原因」が、現在の「結果」をもたらすことになります。フロイトは、感情という「原因」によって、行動という「結果」がもたらされると考えました。

これは、いわゆるトラウマの考え方です。たとえば、いじめられた経験による「不安な気持ち」から「引きこもり」になるといった具合です。

しかし、この考え方を採用すると、人間が感情に支配される生き物だということになります。この点を指摘したのがアドラーです。

感情は手段である

アドラーは、感情と行動の間に「手段」と「目的」の関係を設定します。彼は、感情という「手段」によって、行動という「目的」が達成されると考えました。

たとえば、先ほどの「不安な気持ち」は「引きこもり」になるための手段だといいます。そして、トラウマなど存在しないとまで言ってのけるのです。

アドラーの目的論の根本には、人間は感情に支配されるのではなく、感情を道具としてコントロールできる生き物だという大前提があります。

この目的論を受け入れるには、感情を言い訳にしない勇気が必要になりそうです。

万人に好かれなくてもよい

さらに、本書では「すべての悩みは対人関係によるものだ」といいます。とりわけ「誰かに認められたい」という承認欲求に対しては手厳しく言及しています。

なぜなら、承認欲求には自分の価値観が存在せず、他人の価値観に合わせて生きることが至上命題となるからです。

本書では、相手に居場所を与えてもらう承認欲求ではなく、自分で居場所を作る「共同体感覚」と「貢献感」が重要だとしています。

それを身に着け、実践するためには「万人に好かれなくてもよい」という諦めが必要なのでしょう。

スキルがあればよい

「万人に好かれなくてもよい」と覚悟を決めることは、言い換えれば「特定の人から嫌われてもよい」と割り切ることです。

本書では、そんな「嫌われる勇気」を手に入れることで、自由になれるとしています。しかし、世の中はそんなに甘くはないでしょう。

「嫌われる勇気」と同時に必要なのは、生きていくためのスキルです。

霞を食べて生きる仙人でない限り、人間は日銭を稼いで口を糊していかなければなりません。日銭を稼ぐには生業が必要です。その生業を保障するのがスキルなのです。

そうして「嫌われる勇気」を手に入れた個人の共同体こそが、真の自由を勝ち取るのではないでしょうか。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-59.html

2014/05/25 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】変化することを許されたガールズユニット:東京女子流

   ↑  2014/04/20 (日)  カテゴリー: 九森信造

アイドルの価値は「ここにいたこと」を体現することである。その時代、その場所でしか発揮できなかった輝きを最大限に表現する。ある意味では、最上級の刹那的な魅力を提供する人やグループがアイドルの定義である。(九森)


今回は、アイドル論となります。BON-BON-BLANCOの記事を読んでいただければ、わかりやすくなるかと思います。

私は、BON-BON-BLANCOの「バカンスの恋」(2003年)以降、アイドルの現場から少し離れました。それは、アイドルがあまりに因果な商売だと感じたからです。

冒頭に掲げた定義を裏返すと、アイドルというのは、10代の女の子が一瞬の輝きと引き換えに大きな代償を払う商売です。特にモーニング娘。の初期メンバーのその後を見て私が感じたことでした。

私をアイドルの現場へ戻したガールズユニット、東京女子流

しかし、忘れもしない2010年10月、ある曲を聴いて私は改めて現場への復帰を決めました。


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2010年は「ヘビーローテーション」でAKBの本格的ブレイクが始まった年でした。私はまたもや世間がアイドルを安易に受け入れつつあることを懸念しながらも、いわゆる「アイドル戦国時代」の調査を始めました。

動画サイトを巡回しているとアイドルという名前だけで多くの関連動画が出てきます。どれもみんな昔聞いたようなフレーズとメロディーでした。

そこで、気になるアーティスト名とタイトルが出てきました。

「東京女子流/ヒマワリと星屑」

東京で生きることを選ばなかった私。星屑という名前にも自分と浅からぬ因縁を感じ、URLをクリックしました。イントロでかかったカッティングの効いたギター音、それだけでもう自分のライフタイムベストになったといえます。

実際に曲を聞いてもらわないとこの衝撃はわからないと思いますが、私にとってはBON-BON-BLANCOの「バカンスの恋」以来の衝撃でした。

また、野宮真貴とともにPIZZICATO FIVEを結成していた小西康陽も、同曲を「Jacson Sistersの『I Believe in Miracles』を超えた」と評しています。

「I Believe in Miracles」は、フレーズを聞けば知らない人はいないであろう名曲です。

ただ、私にとって一つの懸念がありました。東京女子流の所属事務所がA社ということです。A社はこれまで時代をリードしたプロデューサーやアーティストを多く輩出してきた一方で、目の前の売上重視でアーティストをすり減らすような企画も多く見られました。

あるアーティストに12週連続でシングルを発売させる動きなど、投資分を急遽回収することだけを狙った企画かと勘ぐったこともあります。

私は、現時点での「アイドル」でありながら、そこから脱皮していく可能性のあるガールズユニットの行く末を案じました。

お気づきかもしれませんが、私は東京女子流に対しては「アイドル」とはいわず、ガールズユニットと呼ぶようにしています。確かに、便宜的に「アイドル」と呼ぶことはありますが、あくまで便宜的にです。

東京女子流のコンセプトは「音楽の楽しさを歌って踊って伝えたい!」

彼女たちのオフィシャルサイトに以下のような文章があります。

常に驚きと刺激がいっぱいの『東京』。
次に何が起きるのか分からない『東京』。
そんな『東京』のような、成長と驚きを絶えさせないグループになりたい、
日本からアジア全域、そして世界に向け発信したいという目標から、
『TOKYO』という名前を冠にしたグループ名で、
彼女たちだけのスタイルを追求する。


冒頭に掲げたアイドルの定義を思い返していただきたいと思います。アイドルが「ここにいたこと」を体現する存在だとすれば、アイドルは刹那的にしか生きることができません。

私は「バカンスの恋」の素晴らしさを以下のように述べました。

あの「バカンスの恋」は、アンナ自身があの頃にしか歌えなかった歌を等身大で歌いきっており、文字どおり「ここにいたこと」を記録に残しているわけです。(九森)


BON-BON-BLANCOは二度と2003年の夏の輝きを取り戻すことはありませんでした。あの当時の彼女たちにとって、変わってしまうことは最高潮から落ちていくことであり、私は今も2003年の夏でパッケージングされた彼女たちを思い続けています。

東京女子流が「アイドル」だとすれば、今のような展開はしないでしょう。同世代のアイドルグループであるももいろクローバーZに対して、東京女子流はあえてその逆をいっているように思います。

小見出しにも挙げた「音楽の楽しさを歌って踊って伝えたい!」というコンセプト、そして「変化」を前提にしたユニット名があらわしている様に、彼女たちは成長や進歩、変化することを許されたユニットなのです。

変化しなければいけないからこそ、未来と今が見えてくる

これは私見ですが、運営側は、コンセプトに則っていない売れ方を否定しているように見えます。彼女たちをパッケージングして保存したいというファンは切り捨てているのではないでしょうか。

特に、彼女たちのすべての楽曲には松井寛という編曲者が関わっており、独特の世界観と高い評価を得ています。そう、彼女たちのキャリアには少し大人なかっこいい音楽が寄り添っているのです。

もちろん、アイドル的な「ここにいたこと」の輝きも彼女たちは持ち合わせていますが、本質的にはその大人な楽曲や世界観に背伸びしている彼女たちの成長(変化)こそが魅力なのです。

だから、彼女たちの目線の先にはいつでも未来、理想があります。そして、未来や理想があるからこそ、突飛なことはできない。一か八かの大きなリスクを抱えた勝負は未来に対する無責任感によるものです。

大きなリスクを抱えないからこそ、劇的な変化は起こせないかもしれない。一世風靡もできないでしょう。しかし、それゆえに身に纏うことができるものがあります。他のアイドルになくて東京女子流にあるもの。それは「品」です。

品のあるガールズユニット、それはアイドルというよりも宝塚やバレエダンサーに近い存在なのかもしれません。

東京女子流のこれからに期待してください。

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2014/04/20 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『ビューティフルドリーマー』(夢と悪夢の話)

   ↑  2014/02/01 (土)  カテゴリー: エトジュン
今回は「夢」と「悪夢」に着目して『ビューティフルドリーマー』を見ることにしよう。


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まず、本作の舞台は「ラムの夢」の世界である。それを作ったのは、夢邪鬼という妖怪だ。

夢邪鬼「ワテねえ、長いあいだ捜し求めておりまして。途中で悪夢に変わったりせえへん純粋な夢、永遠の夢の世界を作りたい。あんたんなら大丈夫。ワテには分かりまんねん。さ、聞かせておくれやす」

ラム「ウチの夢はね、ダーリンとお母様やお父様やテンちゃんや、終太郎やメガネさんたちとずうっと、ずうっと楽しく暮らしていきたいっちゃ。それがウチの夢だっちゃ」


こうして「ラムの夢」の世界が始まった。

さて、筆者が着目したいのは「夢」と「悪夢」である。

夢邪鬼「ワテが作るんは、そのお人が見たいと思とる夢だけや。そやから夢が邪悪なもんになったんやったら、それはそのお人に邪悪な願いがあるからや」

[…]

夢邪鬼「ええ夢かてぎょうさんおましたんやでェ!せやけど、みんな長続きしまへんねん。みんなワテを追い越して悪夢になって、最後はがしんたれに食われてしまいまんねん」


なるほど、夢邪鬼によれば「そのお人」の「夢」が「そのお人」の「悪夢」になって、最後はがしんたれに食われてしまうらしい。

がしんたれとは役立たずのことであり、ここではバク(悪夢を食う伝説の獣)のことである。

また、夢邪鬼によれば「ラムの夢」は「途中で悪夢に変わったりせえへん」夢であり、それは永遠に続くはずだった。ところが、あたる(主人公)によってぶち壊されてしまう。

夢邪鬼の弱みを握ったあたるは、取引として「あたるの夢(ラム抜きのハーレム)」を実現させるが、それが「悪夢」に変わってしまい、バクを呼んでしまう。バクは「あたるの夢」はもとより「ラムの夢」まで食ってしまった。

それでは「ラム抜きのハーレム」が「悪夢」に変わったのはなぜだろうか。それは、あたるが「ラム入りのハーレム」を求めるようになったからである。

あたる「ラム抜きのハーレムなど不完全な夢、肉抜きの牛丼じゃ!そんなモンぶち壊しておれは現実へ帰るぞ!」


このように「あたるの夢」が「悪夢」に変わったのは、あたるの願望が変わったからである。人間の「夢」が「悪夢」に変わるのは、人間の願望が変わるからだといえるだろう。

そして「ラムの夢」が「途中で悪夢に変わったりせえへん」ということは、ラムの願望が変わらないということであり、ラムがビューティフルドリーマーだということである。

さて、すべてをぶち壊したあたるは夢邪鬼の怒りを買い、新たな悪夢に閉じ込められてしまう。そこであたるを救うのは、幼少期のラムである。

ラム「お兄ちゃん、どうしても帰りたいの?」

あたる「お兄ちゃんはね、好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたいのさ。わかんねェだろうな。お嬢ちゃんも女だもんな」


なるほど、あたるは「ラム入りのハーレム」を求めながら、ラムからは自由でいたいのだ。それは『うる星やつら』における「現実」そのものである。

ラム「教えてあげようか?」

あたる「え?知ってんの?現実へ帰る方法知ってんの?」

[…]

ラム「その代わり約束してくれる?責任とってね」


こうして、あたるは「現実」に帰還する。

ラムのいう責任とは「ラム入りのハーレム」を求めることに対する責任だ。あたるは、これからもラムを求め続けなければならないのである。

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【九森信造】前田敦子の大きなけじめ、大島優子の小さな復讐

   ↑  2014/01/08 (水)  カテゴリー: 九森信造
2013年の紅白歌合戦では、大島優子がAKBからの卒業を発表しました。

この2年間で、AKBを創設当初から支えてきたメンバーの大部分が卒業し、今回の卒業発表も世代交代を象徴する出来事となりました。

この記事では、前田敦子と大島優子の卒業を比較することで、2012年3月から2013年12月までのAKBを論じてみたいと思います。

結論から言えば、前田敦子の卒業は「大きなけじめ」であり、大島優子の卒業は「小さな復讐」だったのではないでしょうか。


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女神たちの集大成と人身御供:前田敦子の場合

東日本大震災が起こった2011年、誤解を恐れずに言えば、彼女たちは女神のような働きをしていたと思います。詳しくは『Documentary of AKB 2』に描かれていますが、テレビ番組を賑わせただけではなく、被災地でのイベントを毎月開催していました。

しかし、女神たちは壁にぶつかります。恋愛禁止ルールを逆手に取られたスキャンダル、総選挙によるプロモーションへの批判。その女神の顔であり、常に批判の中心に据えられたのが、前田敦子だったといえるでしょう。

『Documentary of AKB 2』で、彼女は印象的なことを語っています。

「私たちっていったい、何と戦ってるんでしょうね」


その一方で、世間はAKB無しでは成り立たない状況になりました。朝から晩まで彼女たちを見ない日はなく、雑誌からインターネットに至るまで、彼女たちのいないコンテンツを探す方が難しくなりました。

AKBと無頼派メガネのナツイチタイアップ、秋元才加編でも書きましたが、AKBの歴史の大部分は、オワコンになったアイドルを世間に知らしめる戦いでした。その世間が、彼女たちを批判しつつ、中心に据えるようになったのです。

そんなAKBの最後の目標は、東京ドームでの単独公演でした。その夢の実現を直前に控えた2012年3月25日、前田敦子は卒業を発表します。ある意味では、AKBの夢を達成するための「大きなけじめ」、少々大げさな言い方をすれば「人身御供」だったのかもしれません。

夢を叶えた後の壁:AKBのアイデンティティ

東京ドーム公演を終えた翌日、前田敦子は卒業しました。その後、AKBにとって壁になったのは、大きくなりすぎた彼女たち自身でした。

恋愛禁止ルールは戒律のように扱われ、博多への「左遷」、活動辞退、はたまた坊主にしての謝罪など、ワイドショーを連日賑わせ、AKBファンではない層にまで物議を醸すムーブメントとなりました。

一方で、世間が求める矛盾も明らかになります。恋愛スキャンダルで取沙汰され、AKBの世界観を良くも悪くも崩壊させた指原莉乃が、総選挙で1位になったのです。このことをどう捉えるべきでしょうか。

私は、世間という大きな装置の前にAKBがAKBではなくなってしまったのだと考えています。

それでは、AKBとは何でしょうか。大島優子の発言から考えてみましょう。これは、古参のファンに向けられた言葉だと思います。

「私は、秀でた才能も無いですけれども、ただただ、何事も全力で笑顔でやってきたことが、実になって、その実にみなさんが水をかけてくれて、太陽のような光をあびさせてくれて、咲くことができています。いつまでも太陽のような存在でいてください。」


2009年に発刊されたQuick Japan vol.87で、戸賀崎支配人が以下のように語っています。

「僕の仕事のひとつは、ファンの声を集めるってことですね。(中略)

MVP制度を秋元さんがやろうって言って、僕が舞台に出て行って言ったんですよ。そうしたらその後、お客さんから『応援の方法には人それぞれのやり方があるでしょう?』って猛クレーム(中略)

次の日、『変更しよう』って(秋元さん)に言われて、『ですよねぇ』ってなって。またお客さんの前で、昨日発表しましたけど、やっぱり止めます。」


同じ雑誌で、秋元康はこのように語っています。

「まだお客さんががらがらの頃は、僕が劇場のロビーにいて、お客さんに『どう?』とかって聞いていましたから(中略)

今も同じですよ。劇場で生の声を聞く機会が減ったというだけで、ファンと見えない所で会話をしているんです。」


みんなで作り上げていくAKB。古参のファンは、ファンでありながら運営側に参加できたのです。そこで初めて、プロモーションや販促を超えた、握手会や総選挙の意義が生じていました。

しかし、この構造は諸刃の剣でした。AKBの受け皿が大きくなるほど、古参のファンの手を離れ、世間という大きな装置を反映して、そのルールや価値が決められるようになってしまいました。つまり、AKBがAKBではなくなってしまったのです。

紅白に降り立った復讐の女神:大島優子の場合

大島優子はAKBを当初から支えてきた2期生でありながら、女優としてもマルチな才能を発揮しています。AKBであることと一個人であることに葛藤を抱えていたのではないでしょうか。

古参のファンのおかげで今のAKBがあるのに、今のAKBは古参のファンばかりに向いてはいられない。そして、自分もいつまでもAKBにいることはできない。

そんな彼女の葛藤をぶつけるために、AKBならではの「サプライズ」を紅白に仕掛けたのではないでしょうか。

秋葉原のドン・キホーテの屋上で、当時オワコンだった「アイドル」に一番大事な時間を注いできた彼女たちの物語は、ファンや運営サイドによる「サプライズ」に喜び、時に涙し、時に憤ることで紡がれてきました。

しかし、彼女たちとファンが作り上げてきた物語は、今や世間という大きな装置を反映し、彼女たちは世間を体現する存在になってしまいました。

そんな時、1人の復讐の女神が、世間の注目を集める場所、すなわち紅白歌合戦に「サプライズ」を仕掛け、AKBを体現して見せたのです。それは、世間に対する「小さな復讐」だったのではないでしょうか。

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【九森信造】「っぽい」が「本格」になる方法:ライムスター論

   ↑  2014/01/01 (水)  カテゴリー: 九森信造
皆さん、日本語でラップしたことありますか?

今回は、前回の「2013年は『っぽい』の年」を踏まえた上で、日本語ラップのパイオニア「ライムスター(宇多丸・MUMMY-D・DJ JIN)」のリリックを見ていくことにしましょう。

オレにゃ意地がある目指すオリジナル

日本語ラップに対する批判として「日本には黒人差別のような環境がないからラップは根付かない」というものがあります。確かに、ラップを語るうえでは、その担い手であった黒人もといアフリカ系アメリカ人の存在は欠かせないでしょう。

しかし、MUMMY-Dはこう歌います。

「次の生け贄はミスター食わず嫌い
端から耳貸す気ないくせに何かとケチつけるお前とケリツケル
いわく『日本にゃHIPHOPは根付かねぇ!
日本人がラップするとはいけすかねぇ!
何の意味がある?この尻軽。所詮無理がある!』
と無意味がるが
オレにゃ意地がある目指すオリジナル
シェリルみたいにI got to be real」

「ウワサの真相feat.FOH」『ウワサの真相』


私も90年代後半から日本語ラップを好んで聞いていますが、黎明期はダジャレと言われても仕方ないような韻の踏み方やお経のようなフロウもあったかと思います。

それでも彼らは、ラップの魅力に夢中になり、ラップに人生を賭けてきたからこそ、そこに「意地」を張っているのです。


ウワサの真相


神は天にしろしめし世はすべてこともなし

そうして、彼らが切り拓いた日本語ラップの市場が成長すると、ブラウン管(今なら液晶か)に取り上げられるラッパーとそうでないラッパーが分かれることになりました。

ここ最近までは、ライムスターも「そうでないラッパー」だったといえるでしょう。DJ JINはこう歌います。

「半ば本格派 半ば道楽か
勝手次第な好事家なくばかつて生まれた娯楽は無駄
だがその興味の源泉は局地局地に伝染し
無償は承知の原点に立ち返り独自に喧伝す
誰がために誰がためもなくただはかなく身を焦がす」

「ザ・グレート・アマチュアリズム」『グレイゾーン』


なまじキャリアを積んで「本格派」というマイナーに甘んじようとも、彼らは自分のラップを貫いてきたのです。さらに、MUMMY-Dはこう歌います。

「イカすブラウン管なかのナンパラッパーが
吹き出しちゃうほど直球で
左様、世の中そんなに甘くはない
が言わしてもらう決してためらわない
オレにとっちゃこいつは金じゃない
Checkしなこの至高のアマチュアナイト」

「ザ・グレート・アマチュアリズム」『グレイゾーン』



グレイゾーン


このアマチュアリズムは、数年の活動停止(2007年~2009年)から復帰したライムスターにも受け継がれていました。

「声が無いならリズムで勝負
リズムが無いならイズムで勝負
早口・オフビートすべて試した
決してならなかった誰かの手下」

「K.U.F.U.」『マニフェスト』



マニフェスト


誰もいわねぇからぶっちゃける

その一方で、宇多丸師匠は、社会に対して言いたい放題の姿勢を貫きます。

「オレだってキレそう
ほんとイヤな世相
なんでああ無節操
ワイドショーは消そう
やたらと血相変え吊し上げ
そう『地獄への道は善意で舗装』」

「H.E.E.L.」『マニフェスト』


このように、宇多丸師匠のリリックには「そういう言い方があるんだな」と膝を打つことがよくあります。

「あの半島の方に核弾頭
足元にたくさんの活断層
まるで崖の上に建つダンスフロア
で俺たち踊らすバブル残党」

「逃走のファンク」『Heat Island』


この作品の発売が2006年、すなわち東日本大震災はおろかリーマンショックも起きていない時期だというのは、驚くべきことだといえるでしょう。


HEAT ISLAND


決して譲れないぜこの美学

活動休止前の2007年、武道館ライブでMUMM-Dはこう語っています。

「原点回帰って言葉があるけど俺らにね原点回帰はない!
何でかって言うと未だに原点にいるから
原点回帰のアルバムですなんてそんなものは出しませんよ
そんなこと言うんだったら毎回原点から動いてない
毎回原点回帰のアルバムを俺ら作ってきてる訳
俺はそれをすげえ誇りに思うんだよね」



原点回帰とは「自己対話」のことだと思います。社会を批評するにしろ、何かをメッセージするにしろ、自己対話ができていなければ、作品はつまらないものになるでしょう。

逆に、自己対話がしっかりできていれば、普遍的な作品を生み出すことができるのではないでしょうか。

「決して譲れないぜこの美学ナニモノにも媚びず己を磨く
素晴らしきろくでなしたちだけに届く轟くベースの果てに」

「B-BOYイズム」『マニフェスト』


そうです、己を磨き続けるしかないのです。最初は、黒人文化の真似をした「ラップっぽいもの」でした。しかし、長い時間をかけて磨き続けるなかで「本格的な日本語ラップ」を生み出してきたのです。

同じように、「っぽいもの」を磨き続ければ「本格的なもの」になります。そして、それには時間がかかるのです。日本語ラップも20年かかりました。

2013年は『っぽい』の年」だとすると、2014年は「本格的なもの」を生み出すためのスタートとなるでしょう。

「言ったなボウズ許しはしないぜ三日坊主!君の!」

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-51.html

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【九森信造】2013年は「っぽい」の年:SPECと食品偽装とさしこと

   ↑  2013/12/25 (水)  カテゴリー: 九森信造
SPEC劇場版、ついに完結しましたね。といっても、ドタバタしていたので、ひと月遅れで映画館に足を運びました。


spec.png


さて、SPEC論は別の段に譲るとして、2013年はどんな年だったかと問われたとき、私は「っぽい」の年だったと答えます。

ホテルで高級「っぽい」料理を食べる時間消費

今年、世間を騒がせた事件として、有名ホテルの食品偽装が挙げられます。一度騒動になると「このチャンスに」といわんばかりに、色々な偽装や認識不足が取り上げられました。

ですが、根本的には、この「にせもの」の材料で作られた料理に舌鼓を打って「これが○○ホテルのディナーか」と喜んでいたお客さんが多く存在していたはずです。

そういう意味で、多くの人々は料理の「味」ではなく、ホテルで出されている高級「っぽさ」にお金を払い、満足していたというわけです。

おしゃれかつ豪勢「っぽい」SPEC

豪勢なキャスト、CG、話題性、メディアミックスによる大々的な取り上げ方……。日テレにおける20世紀少年、フジにおける探偵ガリレオ、それがTBSのSPECだったといえるでしょう。

SPECの最大の魅力は、2000年代~東日本大震災以後「っぽさ」が詰め込まれていることです。私たちは映画そのものよりも、その「っぽさ」にほくそ笑み、語ったりするために、映画を見に行っているのでしょう。

指原「っぽい」が浸透したAKB

AKBの恋愛スキャンダルに対する特殊性は、皆さんご存知の通りだと思います。2012年6月の時点で、彼女はファンの男性との不適切な(クリントンを思い出すなぁ)写真を週刊文春に掲載され、HKTへの左遷が決まります。

恋愛スキャンダルで活動休止に追い込まれたメンバーもいたことから、指原さんの処遇にはいろいろと意見が上がりました。

しかし、その1年後、彼女はAKBの頂点に立っていたのです。

前田敦子や大島優子、篠田麻里子、板野友美のような1期生は「AKBとは何か」を体現していたと思います。しかし、指原さんは何かを体現しているのでしょうか。

辛辣な表現かもしれませんが「何でもやる!」という姿勢は逆に、少しカワイイ芸人といったカテゴリーに陥っていたような気がします。

結局、私たちは指原さんに「本格」を求めることはないのです。前田敦子がAKB卒業後、映画女優として開花しているように、AKBをやめなければ上れない階段もあるでしょう。

「っぽい」と「本格」のあいだ

2013年は「っぽい」で満足していた人々が「っぽい」と「本格」のあいだで揺れ動いていた年と言えるかもしれません。来年はどの道を選ぶのか。それはみなさんの選択です。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-49.html

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【エトジュン】『千と千尋の神隠し』(自己と他者の話)

   ↑  2013/12/08 (日)  カテゴリー: エトジュン
今回は「自己」と「他者」に着目して『千と千尋の神隠し(千尋)』を見ることにしよう。


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まずは、オリエンタリズムの作品、すなわち「自己を規定するための他者」を描いた作品を見ることにしたい。

リンダ・ノックリンによれば、オリエンタリズムに典型的な主題として、裸の女性に対する所有幻想があるという。

たとえば、ジャン=レオン・ジェロームは、裸の力ない女性と着衣の力強い男性を様々な設定のなかに描いた。ここでは「奴隷市場」を参照しよう。


gerome.png


「(奴隷として描かれた)彼女たちは、どこか遠くで自分たちの意思に反して捉えられた無垢の女性として描かれており、その裸体は、非難ではなくむしろ同情される対象となっている。彼女たちはまた、誘惑的な肉体をおおうよりはむしろ、目をそらすという迎合的な態度をとっている。」(ノックリン)


ジェロームの絵画は、作品を鑑賞しながら、女性を鑑賞できるようになっている。女性の裸体は、作品を鑑賞するうえでは同情の対象となり、女性を鑑賞するうえでは欲情の対象となるのだ。

「(ジェロームの様式は)同時代のほとんどの観者に、穏健な『客観性』を通して、彼の話の中における登場人物たちが、論争の余地のない『他者であること』を保証することによって、主題を正当化したのだった。」(ノックリン)


ジェロームの絵画は、観客にとっての「他者」を描いている。観客は、女性に欲情する「他者」を眺めながら、女性に同情することで「自己」の正当性を担保し、それから女性に欲情することが出来るのだ。

それでは『千尋』を見ることにするが、本作の舞台となる「油屋」には売春宿のモチーフが用いられている。また、千尋は「湯女」として働くことになるが、これは売春婦のことである。

その裏付けとして、宮崎駿の発言を参照しよう。

「いまの世界として描くには何がいちばんふさわしいかといえば、それは風俗営業だと思うんですよ。日本はすべて風俗営業みたいな社会になってるじゃないですか。」(日本版プレミア2001年9月号)


もちろん、これは作者の意図であり、作品がこの通りに解釈されなければならないということはない。映画とはテクスト(解釈の対象)であり、観客が自由に解釈するものだからである。

とはいえ、今回は作者の意図を踏まえながら作品を解釈することにしよう。

まず、千尋が売春婦であるとすれば、それを買うのは「油屋」の客、つまり「やおよろずの神々」ということになる。なかでも特徴的なのは、千尋を追いかけまわすカオナシだ。

カオナシは、黒い影にお面をつけた見た目で、無表情かつ得体の知れない存在である。そして言葉をもたないため、手から砂金を出すなどして千尋の気を引こうとした。カオナシは、まさに千尋を買おうとする客なのである。

では、売春宿を舞台にした『千尋』において、千尋を買おうとする客がカオナシなのはなぜだろうか。

先にも述べたように、カオナシとは「得体の知れない存在」であり、観客にとっては「他者」ということになるだろう。

観客は、千尋に欲情する「他者(カオナシ)」を眺めながら、千尋に同情することで「自己」の正当性を担保し、それから千尋に欲情することが出来るのだ。

それでは「自己」の正当性を担保するために「他者(カオナシ)」を必要とするのは誰だろうか。この問題提起に答えるのは困難だが、それを宮崎駿とする解答は最も有力なのではないだろうか。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-41.html

2013/12/08 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『もののけ姫』(自然と体現の話)

   ↑  2013/12/01 (日)  カテゴリー: エトジュン
今回は「自然」と「体現」に着目して『もののけ姫』を見ることにしよう。


もののけ姫 [DVD]


「自然」と書いて「ジネン」と読むとき、それは「ありのままであること」を意味する。日本人の祖先は「ありのままであること」に神秘を見出し、それを体現する「ありのままであるもの」を信仰していた。

「ありのままであるもの」とは、山や川、そして動物など、人間の作為が加わっていないもののことであり、今でいう「シゼン」のことである。

実は「自然」と書いて「シゼン」と読むとき、それは「突然」ということを意味していた。それが「ありのままであるもの」を意味するようになったのは、英語の「nature」の訳語として当てられたためである。

逆に言えば、かつての日本語には「nature」にあたる語、すなわち「ありのままであるもの」を意味する語がなかったということだ。

なるほど、日本人の祖先は「ありのままであるもの」を信仰していたが、それを「シゼン」と呼んでいたわけではないのである。

しかし、今回は便宜上「ありのままであるもの」を「シゼン」と呼ぶことにしたい。日本人の祖先は「シゼン」を信仰していたのである。

ところで、彼らにとっての「ジネン(ありのままであること)」とは、一体どういうことだろうか。結論から言えば、それは「矛盾していること」である。

「私たちも夏の暑さにはうんざりさせられるが、その暑さが作物を育てる。冬の大雪は大変でも、大雪が降る地域では杉がよく育ち、山菜も豊富である。こういう風土に生きた人々は、合理的な精神をもつことより、矛盾とつき合い、矛盾と折り合いをつける能力を高めた。」(内山節)


彼らにしてみれば、矛盾こそが「ジネン」なのであり、それを体現するのが「シゼン」なのである。

「山も、滝も、岩も、ジネンの世界がみせた姿なのである。だからこの思想はすべてのものに精霊が宿るというより、ジネンの世界がさまざまなかたちで現れているからそこに手を合わせるのであって、精霊信仰とはちょっと違う。」(内山節)


それでは、以上を踏まえて『もののけ姫』を見ることにしよう。


もののけ姫


図は、シシ神が歩くシーンだ。シシ神が一歩踏めば、そこから新しい生命が息吹をあげ、足を離せばたちまち枯れてしまう。これを解釈すれば、シシ神は生と死をあわせ持った存在だといえるだろう。

登場人物の台詞でいえば「シシ神は死にはしないよ。命そのものだから。生と死とふたつとも持っているもの」ということである。

そして、ここに日本人の祖先の信仰を見出すことができる。シシ神は、生と死という正反対の、あるいは矛盾する概念を体現する存在なのだ。

登場人物たちは「ジネン(矛盾していること)」に神秘を見出し、それを体現する「シゼン(シシ神)」を信仰しているのである。

このように『もののけ姫』は、日本人の祖先の信仰を描いた作品だといえるだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-47.html

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【九森信造】瀬戸内寂聴『ひとりでも生きられる』【秋元才加】

   ↑  2013/08/28 (水)  カテゴリー: ナツイチ
秋元才加は、AKBであることよりも、彼女の名前よりも、彼女自身の見た目や言動の方が際立っているのかもしれない。

いいとものレギュラーなどマスメディアへの露出だけでなく、2期生中心のチームK創生期のリーダーとして君臨した。

そんな彼女が、本日2013年8月28日、AKBを卒業する。

彼女が2期生として活動を始めたのは2006年のことだった。首相はまだ、小泉純一郎氏であり、リーマンショックも東日本大震災も起こっていない時代だった。

1期生と2期生は、常日頃から先の見えない自分たちの人生を切り拓くためにも、アイドルを、いやAKBを世間に知らせ、認めさせる戦いの中に身を置いていた。

その戦いは、孤独を感じながらの仲間との共闘であっただろう。

2011年に公開された「Documentary of akb1」で、前田敦子はこう語っている。

「最近すごい思うのが、テレビとかニュースをふと見たとき、自分が知らないところで他の子が何かをやっていることがありますね。例えば、AKBが何か賞をもらっても、自分はほかの撮影をしていて、他のメンバーがもらっているということがあります。」


2000年前後にモーニング娘。にはまり、BONBONBLANCOでアイドルを離れた私が、再びアイドルの世界に戻ってきたのは「(AKB48)」のせいである。

私の知る限り、前田敦子、篠田麻里子、板野友美、そして秋元才加といった面々は、ピンで何らかの番組や企画に参加してするときは、常に名前の後ろに「(AKB48)」という看板を背負っていた。

私のように、彼女たちを入り口にして、AKBという現象に巻き込まれていった人も少なくないに違いない。

確かに、リーマンショック以降、日本全体で広告宣伝費が削減され、手ごろに利用でき、なおかつ商品購買を促す能力の強いタレントとしてAKBに白羽の矢が立ったことは間違いないであろう。

それでも、彼女たちの悪く言えば貪欲、よく言えば懸命なパフォーマンスや活動の上に、今日のAKBが成立していることは疑いようがない。

そして、上にあげた4人のうち、前田敦子が昨年の夏に卒業し、そして、まるでタイミングを合わせたように、残りの3人がこの夏に卒業していく。

間違いなく、AKBの一つの時代が終わるのだ。


ひとりでも生きられる (集英社文庫)


秋元才加はこんなことを書いている。

「『人は別れるために出逢う』文字だけを見ると、出逢う前から別れを意識しながら人と出逢うのか…と少し寂しく思う人も居るはずだ。それは、違う。この言葉は、愛が無くては生きていけないが、滅びることのない愛もまた存在しない。」


これを読んだ私たちは、彼女がAKBに対して「やり切った感」を持っているのではないかと感じざるを得ない。

今までは、AKBの看板を背負ったメンバーのパーソナリティやキャラクターが認められ、世間がAKB現象を認め、巻き込まれていった。

だが、もはやその必要はない。AKBは世間の大きな部分を占めるようになり、私たちは彼女たち無しの日常を思い出すことができなくなった。

さて、秋元才加は、今までのAKBの自分から脱却しようとしている。

「私はまだ傷付くのが怖い。情熱を持って愛にぶつかる事が出来ない。どんな結果であっても、一つ一つを自分の養分に出来るような、そんな女性でありたい。その上で、愛される事で見つけられる自分の中の女を、自分で馬鹿だなあと少しあきれつつも思う存分味わいたい。」


AKBの秋元才加ではなく、ただ一人の女性タレントとして、受け入れられることもあれば、逆に無視されることもあるだろう。

そうして、与えられる賞賛や批判、すべての愛情の中で、彼女自身が彼女自身であることを誇れる日が来るのかもしれない。

旅立つ彼女に多くの言葉はいらない。私の5回に渡ったレコメンドもそれぞれが、感想文を書いた彼女たちへの送る言葉であった。

しかし、彼女たちの戦友の言葉に勝るものはなかろう。

先ほどあげた、「Documentary of akb1」の前田敦子の言葉を最後に引用する。

「AKBで居続けられる間は居続けていたいけど、AKBのみんなの最終目標は、AKBからどう羽ばたいていくかということなので。AKB48という名前が無くてもどれだけやれるかというのが勝負だと思う。」


AKBから羽ばたく選択をした、功労者である彼女たちのキャリアに多大なる幸あらんことを。

何より、無頼派メガネにAKBのベンチマークを与えてくれたことを感謝しながら、静かな部屋に、RIVERの音楽と共に響く、タイピングの手を止める。

【ナツイチ図書室 AKB48 読書感想文大公開】秋元 才加の課題図書「ひとりでも生きられる」の読書感想文はこちら!

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-38.html

2013/08/28 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】内田義彦『読書と社会科学』を読む

   ↑  2013/08/25 (日)  カテゴリー: エトジュン
内田義彦の『読書と社会科学』(岩波新書、1985年)を紹介します。


読書と社会科学 (岩波新書)


読書と学問(社会科学)について考えたとき、ふと思いつくのは、どの学問にも「古典(×古文・漢文)」と呼ばれる本が存在することです。それは、時代を経るなかで読み継がれてきた古い本だから、古典と呼ばれています。

では、古典が読み継がれてきたのはなぜでしょうか。時代を超えて通用するのはなぜでしょうか。本書を使って解答してみましょう。

まずは、本について、それは著者の思考の枠組みが著されたものだといえます。したがって、読書はそれを追体験する営みだといえるでしょう。

ここでいう「思考の枠組み」とは、世界を認識するための装置として頭のなかに組み立てられるもの、つまり「ものごとをどのように捉えるか」という方法論のことです。

たとえば、自然科学の研究者が顕微鏡などの「物的装置」を用いて自然現象を見つめているように、社会科学の研究者は「思考の枠組み(概念装置)」を用いて社会現象を見つめています。

社会というぼんやりとした対象を観察するには「社会をどのように捉えるか」という方法論(思考の枠組み)が必要なのです。

ところで、知識が時代とともに変化するのに比べ、思考の枠組み(ものごとの捉え方)は時代を超えて通用するものだといえます。

古典が読み継がれてきたのはズバリ、優れた思考の枠組みを備えているからなのです。より正確にいえば、優れた思考の枠組みを備えた本が読み継がれ「古典」になるのだといえるでしょう。

それでは、古典の話を応用して、大学での学びについて考えてみます。

まず「学問(社会科学)」とは何か。それは、自分で提起した問題に対し、古典として著された「思考の枠組み」を応用して考えてみることです。

たとえば、大学の一年生はたいてい「基礎○○学」や「○○学概論」などの授業を受けますが、あれはその学問の古典は何か、つまりその学問が使ったり応用したりしている思考の枠組みがどのようなものかを教える授業なのです。

そして、一年生の時に身につけた思考の枠組みを自分の研究対象に応用したり、その対象に合わせて変形したりすることを通して、自分なりの「ものごとの捉え方」を体得するのであり、その過程こそが大学での学びだといえるでしょう。

本の紹介といいつつ、書評らしくない文章になりました。筆者は、自分で提起した問題に対し、読書論の古典『読書と社会科学』を使って考えてみたのです。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-36.html

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【九森信造】製作委員会『いつか、君へ Boys』【前田亜美】

   ↑  2013/08/21 (水)  カテゴリー: ナツイチ
「ナツイチ勝手にタイアップ企画」では、5作品を紹介する予定だが、実は、この作品だけ決め方が特別である。

一番初めに紹介した高城亜樹の作品を見ていただければわかるように、読書感想文が発表される前からあらかじめ、紹介するメンバーや作品を決めていた。

それに対して、この前田亜美ことあーみんの作品だけは、あーみんの読書感想文を見て、取り上げることに決めた。


いつか、君へ Boys (集英社文庫)


前田亜美と言えば、モデルを思わせるスタイルに対して、いまどき珍しい、太眉毛、そして何より、AKBの絶対的センターであった前田敦子と苗字が同じということもあり、早い段階からAKB関連のメディアで登場していた。

期間限定とはいえ、AKBのほぼ全員の感想文を読破しているが、やはり強烈な印象をもったのは、彼女の感想文におけるカミングアウトである。

「私の家もシングルマザーです。」


彼女の本は短編集であり、その中の一つを彼女が選んだ。その内容は、自分が生まれると同時に父親を亡くした息子と、その母親の関係性を綴ったものであった。

間違いなく、あーみんは自分の境遇と照らし合わせたに違いない。

本編は、父親の死を乗り越える為の儀式のような旅行として、母親に同行する息子の視点で描かれている。

ただし、あーみんと本編の主人公の大きな違いは、生き別れと死に別れという点である。

あーみんは自分の家族に対してこう語っている。

「私は会おうと思えばいつでも両親に会えます。けれど家にいるのはママだけ。でも私は不幸に感じたことはありません。」


対照的に、本編の主人公は家族に対してこう語っている。

「母がいまだに正喜さん(筆者注:主人公の父親)のことを想っていることは、そしていまだに悲しみが癒えていないことは一緒に暮していれば、痛いほどにわかる。(中略)表面上は笑ったりする。でも、心からの笑顔でないことを僕は知っている。」


主人公は、声や感覚では知りえない父親を、母親の悲しみの中に見出す。

ここで、あーみんは別の切り口から新たな視点を提供してくれます。

「将来、娘たちみんなが新しい家族を作ったら“ママは一人かな?”と心配してるときもあります。でも、あみはママに幸せになってほしいから好きなようにしてほしいです。一緒にいれるならママと一生一緒にいたい。再婚したら正直、新しいお父さんと仲良くなれるかわかりません。」


いずれ、本編の主人公も、あーみんも自分たちの両親がそうして来たように、大切な人を見つけ、新たな家庭を築いていくかもしれない。

その時、母親はひとりで生きていけるのだろうか。もちろん、そのような選択をする人もいると思う。

本編の母親の言葉を借りてみよう。

「ママはこれから先も、生きていかなくちゃいけないから。人はひとりじゃ生きていけないってことが、はっきりわかった。もちろん、ママには薫(筆者注:主人公)がいてくれるけど、親子とは、少し意味が違うのよ。」


本編のママの感覚であれば、生き別れる、つまり死別ではなく、選択的な離婚がどうして起こりうるのかわからないであろう。

こう考えると、選択的な離婚は若さゆえの過ちなのかもしれない。

若いころは、何でも一人でできると思う。明日、突然様態が急変して、電話も掛けられない状況に陥るなどと考えることもない。

「相性があわない」「価値観が違う」

それは、一人になるための後付けでしかないのではないだろうか。そんな理由が成立してしまえば、結婚に踏み切ること自体が「若さゆえの過ち」と扱われてしまいかねない。

結婚適齢期が遅くなっているのは、相対的に高齢化社会を迎え、「若さ」の定義が揺れていることと無関係ではない。

あーみんの職業はアイドルである。

アイドルとは刹那であり、永遠である。

彼女がいずれ築くであろう家庭が、平穏であることを願ってやまない。

【ナツイチ図書室 AKB48 読書感想文大公開】前田 亜美の課題図書「いつか、君へ Boys」の読書感想文はこちら!

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-37.html

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【九森信造】谷瑞恵『思い出のとき修理します』【松井珠理奈】

   ↑  2013/08/14 (水)  カテゴリー: ナツイチ
『思い出のとき修理します』を読んだ松井珠理奈ことじゅりなは、松井玲奈とともにSKE48の双璧を成す。

人呼んでJR松井だが、多くの人はこの2人を仮想姉妹と見なす。その場合、姉の玲奈はおしとやかで、おとなしいのに対し、妹のじゅりなはおてんばのしっかり者として捉えられる。

その設定は作品選びにもよく表れており、姉の玲菜が背景的にも内容的にも重厚な『人間失格』を担当したことに対し、じゅりなは比較的取り組みやすい『思い出のとき修理します』を取り上げている。


思い出のとき修理します (集英社文庫)


内容的には、過去に傷を持った、時計修理屋のシュウと美容師の明里が商店街の人々と触れ合う中でそれぞれの過去に決着をつけていくという物語。

しかし、その物語を読んだ感想として、じゅりなはこう端的に述べている。

わたしは、「思い出のとき修理します」というこの本のタイトルを見たときに、思い出は修理できるのだろうか、修理したい思い出とはどんなものなのか、興味をもちました。


じゅりな自身の過去をさかのぼった場合に「修理しなければいけない思い出(壊れている思い出)」がないということだ。

本作では、いずれの登場人物も事情によって過去とまっすぐに向き合うことができずにいる。

「向き合うことができない(壊れている)」から「改めて向き合う(修理する)」のである。

だからこそ「思い出を修理するお手伝い(一緒に向き合う人や出来事)」が必要になるというわけだ。

本作自体の出来云々は置いておくとして、商店街が舞台となっているのは、そこに過去と向き合うための時間とつながりが存在しているという前提と、逆に都市化した空間ではそのような時間もつながりも得ることができないという前提を、読者が共有しているからだろう。

じゅりなはこう結論する。

不思議な出来事なんですが、心温まる結末で優しい気持ちになれました。
もしかしたら、自分の近くにもこんなことがあるかもしれない。
いや、あったらいいなと思いました。


名古屋という大都市の寵児じゅりなも、上で挙げたような前提を共有し、この作品から、かつてあったような気がする理想的なコミュニティの温度感を感じたのかもしれない。

一つ間違えれば、安っぽい恋愛SFラノベと捉えられかねない本作をそのような作品として昇華させ、感想を述べた、じゅりなの感性に敬服するばかりである。

【ナツイチ図書室 AKB48 読書感想文大公開】松井 珠理奈の課題図書「思い出のとき修理します」の読書感想文はこちら!

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-33.html

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【エトジュン】丸山真男『日本の思想』を読む

   ↑  2013/08/11 (日)  カテゴリー: エトジュン
丸山真男の『日本の思想』(岩波新書、1961年)を紹介します。


日本の思想 (岩波新書)


第Ⅰ章「日本の思想」の問題意識は、日本の思想と呼ぶべきものが体系的に整理されて来なかったことに置かれています。丸山は「思想が蓄積され構造化されることを妨げてきた諸契機」を挙げ、その原因を明らかにしていきます。

また、明治以降に「日本人の精神的なよりどころ(國體)」の機軸を担った近代天皇制について論じ、それを創り出した日本人の精神(日本の思想)を浮き彫りにしていきます。

ここで重要なのが「官僚的思考様式(理論信仰)」と「庶民的思考様式(実感信仰)」の対立です。さらに、マルクス主義の受容をめぐって「社会科学的発想(理論的)」と「文学的発想(実感的)」が対立したことを挙げています。

そうして、これらの異質な思想どうしが本当に交わらずに、ただ空間的に同時存在している「雑居性」こそが日本の思想の問題点だと指摘しています。

また、丸山は「雑居」は「雑種」にまで高められる必要があり、そのエネルギーは強靭な自己制御力をもった主体なしには生まれないのだと述べています。

第Ⅱ章「近代日本の思想と文学」では、文芸復興期(1930年代前半)における「文学主義と科学主義」という論点の背景として、プロレタリア文学理論の時期(1920年代前半~1930年代前半)における「政治的なるものと科学的なるもの」の関係を探っていきます。

いわゆる「政治と文学」の問題に「科学」を付け加えることで、日本の思想のすがたを明らかにしようとする試みです。

ここでもやはり「科学主義(理論的)」と「文学主義(実感的)」を対立させる枠組みが用いられており、それらの根本的な結合を目指すべきだというのが丸山の主張なのです。

第Ⅲ章「思想のあり方について」では「タコツボ」という概念が登場します。タコツボとは、それぞれの集団が独立して存在し、交流をもたないことの比喩です。

丸山は、日本ではイメージ(ステレオタイプ)の横行が起きやすいという問題を提起し、その理由として、近代以降に西欧から取り入れられた社会組織が「タコツボ型」であったことを挙げています。

タコツボ型の組織どうしの間には交流がないため、相手に対するイメージがどうしてもステレオタイプ的になってしまうのです。

日本の組織のタコツボ化は「ムラ社会」のような前近代的なものの発現として捉えられがちですが、丸山はそれを近代的な機能分化の発現として捉えています。

第Ⅳ章「『である』ことと『する』こと」では、近代化のプロセスを「である」論理から「する」論理への相対的な重点の移動として説明しています。

「である」論理とは、ものごとの静的な状態を重視する態度のことであり、「する」論理とは、ものごとの機能と効用を問い続ける動的な態度のことだといえます。

丸山は「民主主義の永久革命論者」を自称していましたが、彼にとって民主主義は「する」論理に属するものでした。

しかし、日本の民主主義は西欧から「である」もの(目指すべき状態)として輸入されたものであり、その原理を「する」論理として受け入れた人間は限られていました。

また、日本では国民が自分の生活や実践のなかから制度をつくった経験が乏しいため、官僚的思考様式(理論信仰)によって定められた「制度」が、庶民的思考様式(実感信仰)の「精神」と対立するのだと述べられています。

『日本の思想』は現代にも通用する古典的名著だと思いました。加藤周一が「雑種」について言及した「日本文化の雑種性」も読みたいです。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-32.html

2013/08/11 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】サン=テグジュペリ『星の王子さま』【島崎遥香】

   ↑  2013/08/10 (土)  カテゴリー: エトジュン
島崎遥香さんが『星の王子さま』の読書感想文を書いている。

「この物語に登場するきつねの言葉が私はとても好きです。きつねが言っていた通り街を歩いてみたらすれ違う人々はその他、何十万人もの人に違いないけれどもし、そのすれ違った人と何かのきっかけで友達や家族になれたら、関わりを持てたらその人は私にとって特別な人に変わるはずです。」

【ナツイチ図書室 AKB48 読書感想文大公開】島崎 遥香の課題図書「星の王子さま」の読書感想文はこちら!


今回は「その他」と「特別」に着目して『星の王子さま』を読むことにしよう。


星の王子さま (集英社文庫)


王子さまの星には、ふたつの活火山とひとつの死火山、そして花びらが一重のあっさりした花しかなかった。ところがある日、それまでなかった木が芽を出し、やがてバラの花が咲いた。

「この花があまり謙虚な性格ではないことに王子さまは気づいたけれど、それも無理はないと思わせるほど彼女は美しかった!」


バラは「バラであること」によって特別になった。バラは「その他(バラではないもの)」と比べて特別になったのである。

それからというもの、王子さまは何でもバラの言う通りにしたが、バラの言葉にはトゲがあった。

「そんな風にして、愛しているし何でもするつもりでいるにもかかわらず、王子さまは彼女を少し疑うようになった。あまり意味のない言葉をいちいち真剣に受け止めては辛い思いをした。」


そうして、王子さまは星を出て行くことにした。

星めぐりをはじめた王子さまは、地球という星を知った。地球に行くとき、王子さまはバラのことを考えていた。

「ぼくの花ははかないんだ、と王子さまは考えた。世界から身を守るために、たった4本のトゲしか持っていない!それをぼくはひとりぼっちで置いてきた!」


王子さまは、トゲのある言葉に隠されたバラの弱さに気付いたのである。

さて、地球に降り立った王子さまは「バラたち」に出会う。そこでは「バラであること」によって特別になることはできない。では、王子さまのバラは特別ではないのだろうか。

そんなことはない。王子さまのバラは「王子さまのバラであること」によって特別なのだ。王子さまのバラは「その他(バラたち)」と比べて特別なのである。

また、王子さまのバラであるということは、王子さまに「飼い慣らされた」バラであるということだ。「飼い慣らす(アプリボワゼ)」とは、絆を作るという意味である。

「ぼくは何もわかっていなかった!言葉じゃなくて花のふるまいで判断すればよかったのに。[…]でもぼくも若かったし、彼女の愛しかたがわからなかったんだ」


そうして、王子さまはバラとの関係をやり直すために星に帰ることにした。

『星の王子さま』は、特別な人の特別さに向き合う物語だといえるだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-35.html

2013/08/10 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】太宰治『人間失格』【松井玲奈】

   ↑  2013/08/07 (水)  カテゴリー: ナツイチ
処女性を感じさせる人間失格

『人間失格』を読んだ松井玲奈は「SKEのかすみ草」といわれる、清楚なイメージを抱かせる存在である。

ある意味、AKBの20代のメンバーの中で、処女性(実際問題は別にして)を最も感じさせる女性であると、私は勝手に思っている。

そんな彼女の感想文はこの一節から始まる。

「神様みたいないい子でした。」と締められるこの「人間失格」タイトルからはこんな締めの言葉になるとは一瞬も思わなかった。


玲奈は「神様みたいないい子」という言葉は、周囲の人々からの褒め言葉だととらえている。だが、その褒め言葉の代償として、登場人物の葉蔵と自らを重ね合わせてこう語っている。

確かに葉蔵は酒に溺れ、多くの女性と関係を持ち、恥の多い生涯を送っていたのかもしれない。しかし、周りから見れば彼は「神様みたいないい子」だったのだ。

(中略)

とにかく人の為に動いているようにいい人を演じていた。そんな自分を心の中で恥じて生き続けた結果が、他人と自分の印象のズレにつながったのだろう。

この本を読んで、私も周りの目を気にして自分が思っていることは口にせず、当たり障りのない言葉を口にして自分を守ったことがあった。


冒頭に、彼女のことを処女性を最も感じさせると書いたが、それと同時に、彼女はギャップの激しいキャラクターである。

肉が食べられないにもかかわらず、激辛料理は食べられる。そこから、AKBの学芸会的ドラマ「マジすか学園1・2」では2作連続で、ゲキカラというサイコなキャラクターを演じ、その白い肌に生える流血シーンを展開している。

彼女のことを知れば知るほど、「神様のようにいい子」ではないことがよくわかる。

神様は人間失格

私は、人間失格の最後の一節を読んだ後、浜崎あゆみのBoys&Girlsの歌詞の一節を思い出した。

本当は期待してる
本当は疑ってる
何だって 誰だってそうでしょ
”イイヒト”って言われたって”ドウデモイイヒト”みたい


人から期待された反応を汲み取り、期待された通りの言動しか起こせない人格は、”ドウデモイイヒト”なのかもしれない。そして、神様になれるはずのない人間が「神様のようにいい人」と言われた瞬間、「人間失格」になるのかもしれない。

コミュニケーションから生まれる「イイヒト」

しかし、受け手にも責任があるかもしれない。

玲奈は感想文をこう締めている。

神様にはなれないけれど、人の本当の気持ちが少しでも汲み取る事ができる、そんな人に、私はなりたいと思った。


「イイヒト」を演じるのは本人だが、それは受け手によって作り出される幻想なのかもしれない。だから、玲奈のように「少しでも汲み取る」ように努力したい。人間合格は受け手の側から始まるのかもしれない。


人間失格 (集英社文庫)


【ナツイチ図書室 AKB48 読書感想文大公開】松井 玲奈の課題図書「人間失格」の読書感想文はこちら!

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-31.html

2013/08/07 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』【横山由依】

   ↑  2013/08/03 (土)  カテゴリー: エトジュン
横山由依さんが『桐島、部活やめるってよ』の読書感想文を書いている。

「ただ、自分というものは変えられると私はAKB48に入ってわかりました。[…]くっきりとした課題とやりたいこと、それを乗り越えたいという気持ちで毎日が充実したと感じます。」

「そういう日常での小さな出来事の積み重なりが自分というものを形成して、更には自分というものを変えていくんだなと思いました。」

【ナツイチ図書室 AKB48 読書感想文大公開】横山 由依の課題図書「桐島、部活やめるってよ」の読書感想文はこちら!


まとめると「自分」は「日常での小さな出来事の積み重なり」によって形成されるから「変えられる」ということだ。「毎日が充実」すれば自分も変わるというわけである。

今回は「毎日が充実」ということに着目して『桐島、部活やめるってよ』を読むことにしよう。


桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)


主な登場人物は、小泉風助(バレー部)、沢島亜矢(吹奏楽部)、前田涼也(映画部)、宮部実果(ソフト部)、菊池宏樹(?)である。

なかでも宏樹は「毎日が充実」しているように見える。彼女の沙奈は言う。

「宏樹超かっこよかった!サッカーもうまいんやね!てかやっぱ竜汰くんとか友弘くんとか、宏樹といつも一緒の男子ってかっこいいよね」


宏樹はいわゆる「リア充(リアルタイムが充実している人)」なのだ。放課後を彼女や友達と過ごし、リアルタイムを共有することで充実させている。

「たぶん、俺はうまくやっていける。騒ぐのが好きなお洒落で目立つ友達に囲まれて、クラスでも一番『上』のグループにいて[…]、彼女の沙奈だってそれなりにかわいい。」


それに対し、映画部の前田はどうだろうか。

「僕は映画部に入ったとき、武文と『同じ』だと感じた。そして僕らはまとめて『下』なのだと、誰に言われるでもなく察した。」


なるほど、宏樹は「上」で、前田は「下」だ。では、前田は「毎日が充実」していないのだろうか。そんなことはない。

「僕らには心から好きなものがある。それを語り合うときには[…]、世界が色をもつ。」


前田は「心から好きなもの」によって「毎日が充実」しているのだ。

さて、物語のクライマックスは、宏樹と前田が出会う場面である。前田的な充実を突き付けられたとき、宏樹は何を思うのだろうか。

とはいえ、『桐島、部活やめるってよ』は「スクールカースト(教室内ヒエラルキー)」の「上」と「下」が対決する物語ではない。「日常での小さな出来事の積み重なり」によって、宏樹が変わっていく物語である。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-29.html

2013/08/03 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】宮部みゆき『地下街の雨』【高城亜樹】

   ↑  2013/07/31 (水)  カテゴリー: ナツイチ
どうして、ナツイチとタイアップしたか前編~あきちゃと九森信造~

集英社文庫のキャンペーン「ナツイチ」が、今年はAKBとコラボしており、メンバーによる読書感想文が公開されています。当ブログ、無頼派メガネも勝手にタイアップすることにしました。

ナツイチとはいえ、今回のAKBとのコラボ、はっきり言えば「宮部みゆき」と「高城亜樹」のコラボがなければ、当ブログのタイアップ企画も生まれなかったでしょう。

実は、私、あきちゃこと高城亜樹の魅力にかなり前からやられております。

まずは、来歴などを書くのもいいんですが、最近のアイドルにしては珍しい褐色の肌。それもそうで、高校の進学をテニスのスポーツ推薦で決めたという経歴の持ち主。

いや、それよりも何よりも、私が彼女に心底魅かれたのは、あるテレビ番組の企画でした。

その番組は、AKBの冠深夜番組、AKBINGOで2010年5月に放送されたドッキリ企画。あきちゃの先輩であるチームAのキャプテン高橋みなみの目の前で大島優子がギターを壊すドッキリ企画であきちゃは完全に巻き込まれる立場でした。

先輩の大島優子がギターを触るのを止めることができず、危なっかしい使い方をソワソワしながらフォローしたり、壊れた後は、なんとか修理しようとしてもうまくいかない。

そして、ドッキリが終わった後は、ドッキリに仕掛けられた高橋みなみ以上の号泣。。。

見てみないとわからないと思いますが、画面内外から伝わってくるあきちゃの人間性に「この子、純粋に応援したいな」と思うようになったわけです。

どうして、ナツイチとタイアップしたか後編~あきちゃと九森信造~

2011年10月3日、あきちゃの20歳の誕生日に私、九森信造はある決断をいたしました。

「あきちゃのこれからの芸能生活を支えるような良著(自分の好きな作品)を送ろう」

そうして選んだのが、私の最も好きな作家である、宮部みゆきの『クロスファイア』でした。

確かに「中2病」として嘲笑に値するかもしれません。しかし、私はこのクロスオーバーを見て、勝手にタイアップ企画を決意したのです!

読書のきっかけと感性

あきちゃの読書感想文のこうはじまります。

「前に宮部みゆきさんの本は数冊読んだことがあって、現実的でありながら少し奇妙な印象を受ける作品が多く感じられました。今回の本は、短編小説。この一冊に宮部みゆきさんワールドがたくさん詰まっている作品でした。」


まあ、この時点で「僕の送ったクロスファイアが彼女の読書人生の一つのきっかけになっていたらなあ」と夢想したりします。

さて、きちんと書評に入っていきましょう。

このあきちゃの感想はあながち的外れではありません。

なぜなら、以前宮部みゆきはこういう趣旨のことを語っていたからです。

「どんな人物を描いたところで、結局、自分の中からしか出てこない人物であれば、思い切って描いてしまえと思うんです。」


これは、まさに、あきちゃが感じた「宮部みゆきさんワールド」の真骨頂であろうと思います。

「現実的でありながら少し奇妙」に見えるのは、宮部さんが良い意味で作品中で暴走することを感性のレベルで感じ取ったからでしょう。

あきちゃの恋愛観

『地下街の雨』の内容に触れるとしましょう。主要な登場人物は、同僚と婚約が破談になり会社を辞めた三浦麻子、その同僚の友人である石川淳史、そして森井曜子という謎の女性です。


地下街の雨 (集英社文庫)


ストーリーの要諦はあきちゃの感想文を引用すれば事足りるでしょう。

「この森井曜子は、物語の中ではすごく強烈なキャラクターです。第一印象は、物静かな女性っぽい雰囲気だったけど、虚言癖や妄想癖があるキャラクターに変貌する。その片隅が見えてきたのが「顔の片側で敦史に笑いかけ、残る片方で、麻子をねめつけている」というシーンです。宮部みゆきさんワールドであって、少し人間的に怖いと思いました。物語が進むにつれ、話が急展開し、麻子の今の彼氏である石川敦史と森井曜子が知り合いで、三浦麻子に近づくために計画された行動、芝居であったのです!」


宮部作品の醍醐味の一つは、複雑怪奇に絡み合う登場人物の思惑です。誰一人として一筋縄ではいかない。そこを良くおわかりになっている感想です。

一方で、あきちゃは等身大の自分としての感想も述べます。

「女性だからこそ、どうすれば敦史に興味を示すのかという奥深い考えと、男性だったら積極的な人がいいな、と思いながら物語の世界に吸い込まれて、楽しめた短編小説でした。」


また、物語終盤に麻子と淳史の間にこのようなやり取りがあります。

(麻子)「探しちゃった?」
(淳史)「うん」
(麻子)「心配した?」
(淳史)「そうだよ。当たり前じゃないか」


麻子が淳史に魅かれた理由はこの点だったのでしょう。

つまり、「私はこの人なしでも生きていけるかもしれないけど、この人は私なしでは生きてけるはずがない」と思える関係性こそ、麻子が淳史に魅かれた理由だったと思います。

きっと、あきちゃの周りにもいずれ、あきちゃなしでは生きていけない男性が現れるでしょう。

その時、たとえ、あなたがびしょ濡れでも、傘を持った彼にやさしく微笑んで、傘を受け取ってあげてくださいね。

【ナツイチ図書室 AKB48 読書感想文大公開】高城 亜樹の課題図書「地下街の雨」の読書感想文はこちら!

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-28.html

2013/07/31 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『風立ちぬ』(メガネ男子の話)

   ↑  2013/07/27 (土)  カテゴリー: エトジュン
今回は、映画『風立ちぬ』の内容には触れずに、それを「見る/語る」ための着眼点を紹介しよう。


kazetatinu.png


まず、私たちは「リアルであること」と「リアリティがあること」を分けて考えなければならない。

前者は「現実的であること」、つまり現実の写し絵であることを意味し、後者は「現実感があること」、つまり現実のことのように説得力があることを意味している。

映画に求められるのは「リアリティがあること」だが、私たちは「リアル」を手掛かりに「リアリティ」を感じるため、多くの場合は「リアルであること」が求められる。

さて、映画の登場人物における「リアリティ」は、その外見が内面を表すことで成立している。太ったキャラクターは、だいたい食いしん坊である。

では、映画『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎の外見(メガネ男子)は、どのような内面を表しているのだろうか。

ここでは「メガネ男子論」における先行研究を参照しよう。

「眼鏡の内に他人が容易に触れることのできないもうひとつの世界を抱えている、それがメガネ男子だ。眼鏡は彼らの深奥なる内面世界の存在を示唆すると同時に、それを外界から隔てる開かずの扉だ。」

夏休み集中連載:「メガネ男子」その1・メガネという枠 - ITmedia ニュース


なるほど、この分析に当てはまるキャラクターは多い。たとえば、名探偵のコナンくんが挙げられるだろう。

ところで、コナンくんのメガネは白く光る。これを「レンズ効果」という。

「ここでの眼鏡は『心の窓』とも呼ばれる目を覆い、表情を隠し、メガネ男子の本質である(と見なされている)彼らの内面世界がわれわれからいかに遠いものであるかを印象づける。」

夏休み集中連載:「メガネ男子」その3・レンズ効果 - ITmedia ニュース


もちろん「レンズ効果」は「リアル」ではあり得ない。ところが、私たちは「リアリティ」を感じている。なぜなら、キャラクターの外見(不透明)が内面(不明)を表しているように見えるからだ。

「普段は存在を意識させない透明なレンズが、あるとき彼我を決定的に隔てる壁として立ち現れ、背筋をぞくりと冷たいものが這う。そして眼鏡こそが、そうした彼らの本質を覆い隠しているようにも思えてくる。」

夏休み集中連載:「メガネ男子」その3・レンズ効果 - ITmedia ニュース


筆者が着目したいのは「壁としてのレンズ」という概念(着眼点)である。映画『風立ちぬ』には「レンズ効果」そのものは描かれないが、そこにレンズがあることを強調する演出がなされている。

それでは、堀越二郎の外見はどのような内面を表しているのだろうか。映画『風立ちぬ』は、メガネに着目して「見る/語る」べき作品である。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-26.html

2013/07/27 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】『バカンスの恋』~ここにいたことで輝くアイドル~

   ↑  2013/07/24 (水)  カテゴリー: レコメンド
みなさん覚えていますか?アイドル氷河期を

今でこそ、AKBを初め、ももクロ、アイドリング、パスポ、さくら学院、東京女子流など、あげればきりがないほどのアイドルが活躍しています。

しかし、ご存知の方も多いと思いますが、10年ほど前はアイドル氷河期と言われ、2005年のAKB結成やパフュームのブレイクが始まるまでは、アイドルはもうオワコン(終わったコンテンツ)とみなされていました。

その時代背景において、マイナー路線のアイドルなんて、日が当たるはずもなく、活動を休止していったグループが星の数ほどいました。

その一つがBON-BON-BLANCOです。「ラテンパーカッションができるアイドル」として、ミュージカル「アニー」で主役を務めたアンナをボーカルに迎えた5人グループでした。

そもそも、アイドルとはなんぞや

アイドルという言葉ほど、多くの人々が使っているにもかかわらず、定義があいまいで人によって左右されるものも珍しいと思います。

私自身の定義は以下の通りです。

アイドルの価値は「ここにいたこと」を体現することである。その時代、その場所でしか発揮できなかった輝きを最大限に表現する。ある意味では、最上級の刹那的な魅力を提供する人やグループがアイドルの定義である。


今回紹介するBON-BON-BLANCOの「バカンスの恋」は、楽曲としては当然ながら、このアイドルという文脈を用いることによって、最上級の輝きを発揮する楽曲なのです。


バカンスの恋


僕たちは知っている。彼女たちが「ここにいたこと」を

「バカンスの恋」は、多くの人が開放的になる夏にじれったい恋をしている女の子を歌っています。その内容からは、夏特有の「モラトリアム感」が感じ取られ、誰しもが持つ、夏の思い出とリンクするようになっています。

アンナの魅力はなんと言っても、伸びのあるハスキーな高音でした。過去形にしたことには意味があります。

「バカンスの恋」の発表後、アンナは喉に変調をきたしてしまい、次作となる「BonVoyage」では、少し抑え気味な歌い方になります。その後もライブなどで「バカンスの恋」をパフォーマンスする際は音程を下げていました。

何が言いたいかというと、あの「バカンスの恋」は、アンナ自身があの頃にしか歌えなかった歌を等身大で歌いきっており、文字どおり「ここにいたこと」を記録に残しているわけです。

特に、曲終盤のアンナの高音部分は、2003年の夏のアンナにしか出せなかった声で「バカンスの恋は永遠にプロローグ」と歌っています。

彼女たちのキャリアの中でも、セールスとしても、大きく取り上げられることのなかった作品ですが、BON-BON-BLANCOは「バカンスの恋」という作品で一つの世界観を示しているのです。

これぞ「アイドルにしかできない仕事」といわずして、何がアイドルでしょうか。

タマフルでの再評価とは別で輝く「アイドル」BON-BON-BLANCO

2008年には、宇多丸さんのウィークエンドシャッフルで「バカンスの恋」が高い評価を受けています。しかし、時代の波に乗れず、2009年に活動を休止することになりました。

確かに、楽曲も良く、パーカッションのパフォーマンスも年々上達していたグループだったので、メンバーの脱退などもありましたが、何らかの形で仕事が舞い込んでいたのかもしれません。

しかし、それはもう「バカンスの恋」を歌っていた「2003年の夏にいた」BON-BON-BLANCOではなくなっていたでしょう。

僕たちのBON-BON-BLANCOは、まだパケット定額制がないガラケーの時代に、Youtubeもなく、深夜見ていたスペースシャワーTVから流れる「バカンスの恋」のPVで見た彼女たちなのです。

そう、まさに2003年の夏の時点で、「ここにいたこと」を体現し、その後のキャリアやセールスで評価が左右されない作品を残した彼女たちは、私の定義する意味での真の「アイドル」なのです。

それでは聞いていただきましょう。BON-BON-BLANCOで「バカンスの恋」!

コマーシャル

さて、今年の夏もまた85人の女性たちが読書感想文を書くそうです。
ナツイチ、AKBキャンペーン。彼女たちのひと夏の輝きを刻むように。

無頼派メガネでは彼女たちの読書感想文に対しての感想やレビューを、7月31日から8月31日にかけて行っていきます。

誰が選ばれるかは、完全に無頼派メガネ任せです。お楽しみに!

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-25.html

2013/07/24 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』庵野秀明出演回

   ↑  2013/07/20 (土)  カテゴリー: エトジュン
7月20日(土)は、映画『風立ちぬ』の公開日である。原作・脚本・監督を宮崎駿が務め、主人公の声を庵野秀明が演じている。

今回は、鈴木敏夫によるラジオ番組『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』より、庵野さんをゲストに迎えた第119回と第120回を紹介しよう。

鈴木:僕は、誤解も与えますが、宮さん [ 宮崎駿 ] の一番すごい仕事って、やっぱり『ホルス』だと思うんですよ。最後のモブシーン。あれ宮さんだよね。いろんな人が縦横無尽に動く。それで空間がどんどん広がっていく。あれはちょっと舌を巻くんですよ。

庵野:宮さんのモブは本当にすごいですよね。


『ホルス』とは、監督・演出を高畑勲が、場面設計・美術設計を宮崎駿が務めたアニメ映画『太陽の王子ホルスの大冒険』のことであり、ジブリの原点となった作品である。

高畑・宮崎のコンビは、その後『ルパン三世(TV第1シリーズ)』『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『風の谷のナウシカ』を生み出していくことになるが、彼らの作品を作る拠点としてスタジオジブリが設立されることになった。

その第一回作品が『天空の城ラピュタ』であり、厳密にはラピュタ以降がジブリ作品ということになるだろう。

鈴木:それで映画見るとね、高畑さんは一方で現実を映画のなかに入れようとするし、宮さんはその現実は置いといて。ところが映画作り始めると、宮さんは間に合わないと思ったらコンテを変えてでもその映画を完成させようとするっていう現実主義があるのよ。高畑さんは違うんだよね。

庵野:変えないですよね。


ここでいう「コンテ」とは、脚本をアニメにする際の設計図のことである。高畑さんは現実主義的な映画を理想主義的に、宮さんは理想主義的な映画を現実主義的に作っているようだ。

『かぐや姫の物語』が『風立ちぬ』との同時公開に間に合わなかったのも、高畑さんが理想主義的な作り方を貫いた結果なのだろう。

ところで、庵野さんは『風の谷のナウシカ』で巨神兵を描いたアニメーターである。

庵野:『ナウシカ』の打ち上げのときに[…]、宮さんが「人間なんてね、滅びたっていいんだよ!とにかくこの惑星に生き物が残ってれば、人間という種なんていなくなっても全然いいんだ!」っていうのを怒鳴ってるのを僕は横で聞いてて、この人すごいとそのとき思ったんですね。クリエイターとして宮さんが好きになった瞬間でしたね。


宮さんと庵野さんの関係はそれ以来続いており、宮さんの『もののけ姫』と庵野さんの『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版』が公開された1997年夏には「師弟対決」などともてはやされた。庵野さんが声優として起用された背景にも、師弟関係があったのだろう。

宮さんの『風立ちぬ』、高畑さんの『かぐや姫の物語』を楽しむためにも、ラジオ番組『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』はオススメである。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-23.html

2013/07/20 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】『選挙』~汗をかかない代償~

   ↑  2013/07/17 (水)  カテゴリー: レコメンド
さて、今週の日曜日(21日)は、いよいよ参議院選挙です。

もう期日前投票を済ませた方も多いかもしれませんが、今回は参院選に向けて議論されていることを、映画を通じて考えてみたいと思います。


選挙 [DVD]


【あらすじ】

2005年秋、東京で切手コイン商を営む「山さん」こと山内和彦は、市議会議員の補欠選挙に自民党公認候補として出馬することになった。政治は全くの素人である彼の選挙区は、縁もゆかりもない川崎市宮前区。「電柱にもおじぎ」を合言葉に、小泉首相(当時)や自民党大物議員、地元自民党応援団総出の過酷なドブ板選挙が始まった。



アフター郵政民営化総選挙

本作は、山内さんと東京大学で同級生だった想田和弘の初監督作品。余計なナレーションなどもなく、公開された当時は、国内よりも国外で非常に評価が高く、逆輸入的に国内でも評判が高まりました。

私もリアルタイムで大学の授業で見たことと、映画館に見に行ったことを覚えています。今ほど、SNSが隆盛を極めていなかった時代でもあちこちで議論を巻き起こしていました。

ただ、多くの議論が小泉郵政民営化解散を反映してのポピュリズム批判に繋がることが多かったように思います。私もそういう見方をしていた一人でした。

逆に言うと、それだけ、あの2005年9月11日の狂乱は凄かったということです。

しかし、この映画、一度見て味が無くなる「ガム映画」でなく、噛めば噛むほど味の出る「たくあん映画」なんだと、今回あらためて気づきました。


「ネット解禁」、「若者の政治参加」論点で一層輝く映画

今回の参院選では、政策論争が盛り上がらないため、マスメディアが別の論点を出しており、あたかも今回の選挙の目玉のように扱われていることがあります。

それは「若者の政治参加」という問題です。

ネットにおける選挙活動が容認された初めての国政選挙ということで、各方面でも話題になっています。

投票率の低迷という問題とともに、若年層の投票率が低迷していることが問題視されてきました。特に昨年の12月の自民党の圧勝以降、各メディアでも若者の投票率低下が問題であるという取り上げ方が増えてきました。

しかし、映画『選挙』を見ると、問題はもっと根深いところにあると感じざるを得ません。


「汗を流しているのは誰か」問題

私も何度か、地方自治体の選挙のお手伝いみたいなことをしたことがあるので、映画の雰囲気はよくわかります。

候補者本人が演説で駆けずり回ることなどは選挙運動のほんの一部でしかなく、ハガキに宛名を書く、封筒にチラシを折り込む、後援会に勧誘する、演説会の警備計画を作る、友達や親戚にお願いに回る…

まさに「ドブ板」と呼ばれるべき活動が候補者の選挙活動、ひいては当選を支えているわけです。

それでは、その「ドブ板選挙」の担い手は誰なのか。

その答えは候補者の後援会です。では、後援会には誰がいるのでしょうか。

映画内で代表的だったのは、ボランティアで、選挙の応援をお願いするチラシを封筒に封入している高齢の女性でした。彼女は駅前で貸しビル業を営んでいるらしいです。

おそらく、候補者の後援会でボランティアをできる人々は、ある程度の富裕層に限られてくるのでしょう。

政党自身も、安定的な収入がない以上はこういう「ボランティア」の方々がいなければ、成立しない。まして、マンパワーの提供はもちろん、場所や資金を提供する地元の有力者も必要なはずです。


汗を流した対価、汗を流さない代償

最近、若者の投票率低下が高齢者層への優遇を生んでいるといいますが、心情的にはそれだけではないと思います。

自分が、運よく議員になった時に、駆け出しのころからハガキの宛名書きから何から何まで手伝ってくれた高齢者と、ネットで見たような資料を持ってきて過激な要求を突き付ける若者のグループ。

よほど、後者が理路整然と正しいことを言わない限り、心情的には前者の意見を聞くでしょう。まぁ、選挙で選ばれただけの議員が聖徳太子のような聖賢君主であれば話は別でしょうが。

「バカバカしい選挙運動」と考えている若者も多いと思います。それは立候補者自体が一番心得ていること。だからこそ、「バカバカしい選挙運動」でともに汗を流した人に気持ちが移るのは人情でしょう。

まとめると、自由に使える時間も安定した(不労所得という意味での)収入がない若者が「投票行動」だけを起こすことに本当に意味があるのかということです。

確かに、若者が関わらなくても政治が回ってきたという実態はあると思いますし、そこに甘んじているという事実もあるでしょう。「選挙」における若者不在の状況はその異様な時代性を表しているとも言えるわけです。

ですが、投票率の上昇≒若者優遇政治へのシフトなどという簡単な帰結はあり得ません。汗を流さない代償は確実にあります。


汗を流すモチベーション

単純すぎる帰結かもしれませんが、若者の政治参加を促すには、結局のところ、「身近に感じること」が大事なんだと思います。

高校の同級生が立候補したとか、友達のお姉さんが議員になったとか。若者自身が「リアル」だと感じる世界から、若者と政治の世界を繋ぐ人や問題が起こらなければ、変わることは難しいでしょう。

結局、ネット上で選挙運動を展開しても、LINEをいじっているときに出てくる邪魔な広告と同じ扱いで、スルーされるだけです。

映画本編で山内さんが東大の同級生と語らうシーンで

「本当は有名人になってから立候補しようと思っていたんだよ。(中略)でも、2000票ぐらいで地元なら受かるから、地元をしっかり回れば受かるかなぁと。切手コイン商もやりながら区議会議員が器かなぁと思って」


後援会や組織を持たずに選挙に出ようとしていた山内さんが頼りにしていたのは、地元という「リアル」な繋がりだったのです。


投票行動以外の政治参加という道

かといって、私は無秩序に様々な候補が乱立することを望んでいるわけではありません。

というか、「政治参加」=「選挙・投票活動」という短絡的な発想が、日本の弱点であると思っています。

地元のコミュニティー活動や役員、清掃活動などに「積極的に参加」することも一つの政治参加であると思っています。そこで見えてきた問題点や課題に対処することを考え始めた時点で、人は一人のプレイヤーになれるのですから。

投票行動に価値を与えるとすれば、数字の上では1票でしかない自分の票に、どのような質・価値を与えるのか。


自分の一票に価値を与える

それは、ただ、選挙の日に「投票行って外食する」だけでなく、「日常から思っている問題や疑問を自分の一票に色づけしなさい」という当たり前のことを教育してこなかったからこそ、政治に対する偏った考え方が支配的になり、投票率の低迷ということに正面衝突しているのでしょう。

参議院選挙の投票がまだの方は、ぜひ『選挙』のDVDを見て、あなたの一票に「どういう価値を与えるか」を考えていただけたらと思います。

ここで、コマーシャル。
7月6日より公開された続編『選挙2』が話題になっています。

あの山さんの一人の戦い、非常に興味深いです。見に行きたいなー。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-22.html

2013/07/17 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【エトジュン】『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』第40話

   ↑  2013/07/13 (土)  カテゴリー: エトジュン
『おジャ魔女どれみ』シリーズ第4作『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』より、第40話「どれみと魔女をやめた魔女」を紹介しよう。


ojamajo.png


物語は、下校途中にある4本の分かれ道からはじまる。ひとつは藤原はづき(はづきちゃん)と瀬川おんぷ(おんぷちゃん)が帰る道、ひとつは妹尾あいこ(あいちゃん)と飛鳥ももこ(ももちゃん)が帰る道、ひとつは「MAHO堂」へと続く道、ひとつは「MAHO堂」への回り道である。

ある日、ひとりになった春風どれみ(主人公)は4本目の道を行くことにする。そして、ミライさん(魔女をやめた魔女)のガラス工房にたどりつく。

【ミライさんの発言】

「ガラスってね、冷えて固まっているように見えて本当はゆっくり動いているのよ。[…]ただし何年も何百年も何千年もかけて少しずつ、ゆっくりと。あんまりゆっくりなんで人間の目には止まっているようにしか見えないだけ。でも何千年も生きる魔女はガラスが動いているのを見ることが出来る。いずれ私もそれを見る」


ガラスは「人間の目には止まっているようにしか見えない」のである。

【ミライさんの発言】

「私ここを引っ越すの。ヴェネチアの知り合いがね、こっちに来て勉強してみないかって言ってきてくれたの。彼もうすぐ90なんだけど、彼にガラスを教えたの、実は私なんだ。[…]彼はいま私のことを昔好きになった人の娘や孫だと信じてる。だから私も彼が昔好きだった人の娘や孫を演じ続ける。魔女にはこんな生き方もあるのよ。分かる?」


なるほど、魔女は「人間の目には止まっているようにしか見えない」のである。

ところで、どれみはちょうど将来について悩んでいた。

【どれみの発言】

「あたしも何か得意なものがあればなあって。[…]あたしだけ、どうしていいか分からなくて。何にも見えなくて」


ミライさんは「魔女になること(人間ではなくなること)」を誘う。

【ミライさんの発言】

「あなたは人間でまだ魔女見習い。魔女の世界を知っているようで実はガラス越しにしか見ていないようなもの。でも、もしその先を見てみたいなら、ヴェネチア、私と一緒に来る?どれみ、私と一緒に来る?」


そうして、どれみはある決断を下すことになる。

本作は「魔女になること(人間ではなくなること)」に向き合う話なのだ。

さて、筆者が着目したいのは、どれみたちが国語の授業で梶井基次郎の小説『檸檬』を読んでいたことである。

【先生の音読】

「『あ、そうだそうだ』そのとき私は袂の中の檸檬を憶い出した」


参考までに『檸檬』の一節を読んでみよう。

「一体私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。」


「絵具を固めたような色」をした檸檬の時間は止まっているように見える。筆者の考えでは「どれみ」におけるガラスは『檸檬』における檸檬である。

ところで、魔女のメタファーとしてガラスを用いている本作では、映像の面でもガラスの表現が充実している。その演出を手掛けたのは、巨匠・細田守である。

「どれみと魔女をやめた魔女」は、シリーズの最高傑作だといえるだろう。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-6.html

2013/07/13 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【九森信造】『容疑者Xの献身』~石神は他人事じゃない~

   ↑  2013/07/10 (水)  カテゴリー: レコメンド
現在『真夏の方程式』が公開されているガリレオシリーズ劇場版の第一作。


容疑者Xの献身 スタンダード・エディション [DVD]



[あらすじ]

花岡靖子(松雪泰子)と娘・美里は、どこに引っ越しても疫病神のように現れ、暴力を振るう元夫・富樫を大喧嘩の末に殺してしまう。今後の成り行きを想像し呆然とする母子に救いの手を差し伸べたのは、隣人の天才数学者・石神(堤真一)だった。彼は自らの論理的思考によって二人に指示を出していく。


このあらすじを見ていただいてもわかるように、この映画の主演は、堤真一と松雪泰子の2人です。

ネット上や映画評論などでもこの2人の演技のうまさ、そして「落ちぶれた天才数学者の孤独」みたいなことで書かれています。

[堤真一が過去に演じた数学者と比較]

さて、堤真一が演じた数学者といえば、私は『やまとなでしこ』の中原欧介を思い出します。しかし、中原と石神は同じ数学者でありながら、取り巻く環境や人生そのものが全く違います。

2人の違いを端的に表すとしましょう。

・中原(やまとなでしこで堤真一が演じた数学者)

大学(慶応大学をモデルにした私立大学)卒業後、MITに留学ののち挫折。父親の死もあり、実家の魚屋を母と二人で切り盛りする。自分が魚屋で働いていることをコンプレックスに感じ、桜子(松嶋菜々子)に医者であると偽る。

・石神(容疑者Xの献身で堤真一が演じた数学者)

大学(京大を意識した旧帝大)を学部で卒業後、家族の面倒を見るために、教職の道へ。現在、アパートで独り暮らし。靖子を意識することで、自らの容姿にコンプレックスを抱く。


同じ月9のフジテレビのドラマですが、作品が違えば演じる役柄も全く違うということが分かるかと思います。

さて、堤真一が演じるこの2人の役柄の差はなんなんでしょうか。中原にはあって、石神にはないもの。それは「熱を持った人間関係」です。

石神の生活は至って単調なものです。彼のアパートには娯楽や趣味を彩るようなものが一切なく(登山ぐらいでしょうか)、人のにおいも感じられません。

また、湯川(福山雅治)が石神の学校に行った際、職場の先生は「午前休はよくとるんですよ」とまったく意に介さず、逆に少し迷惑そうに言い捨てます。

ある意味では、彼の周りには、記号としての人間しかおらず、「熱を持った人間関係」が存在していなかった。確かに、「熱を持った人間関係」を持たないことは煩わしさから解放してくれますが、同時に石神に対して、「生きている実感」を失わせていきます。

彼がある大きな決意をしようとした際に、隣に花岡親子が引っ越して来ました。彼女たちは、石神の人生で久しぶりに現れた「熱を持った人間」だったのです。

[熱を帯びない人生の無味乾燥さ]

確かに、石神の感情は極端に一方通行でした。彼は「雪山」に閉じこもっているのと同じです。

しかし、花岡親子と一定の距離を保ちながらも適度な接触を図っていくことで、生きるためのバランスを保っていたのでしょう。こう考えると、石神の取った冷酷かつ残虐な行動の意味もわかってきます。

石神にとって、花岡親子を失うことは人生の熱を奪われることと同じでした。そう、彼は花岡親子を守るため、そして、彼の人生の熱を守り、例え投獄されても、生きている実感を守り続けるために献身的な行動を行ったのです。

[煩わしさを排除するかまってちゃん達]

さて、このような石神の行動は「レアなケース」と観衆は割り切っていていいのでしょうか。

映画の公開当時は、2008年。ちょうど、リーマンショック前後で東日本大震災も起こっておらず、スマフォもツイッターもラインもこんなに普及していなかった。その頃は、きっと石神のような「孤独」を味わっている人々も多かったと思います。

その「孤独」は技術革新と共に、新たに生まれた「なめらかなつながり」のせいで、また人々の忘却の彼方へと追いやられたのでしょう。

しかし、それは追いやられただけでいつでも出てくるチャンスをうかがっています。ラインの既読制度などはまさにこの「孤独」を抑え込むためのシステムの抵抗ともいえるでしょう。

結局、WEBで新たなつながりを求めていく姿勢は、本来「熱を持った人間関係」が持つ煩わしさを排除して、「孤独」を誤魔化していることに相違ないのです。

[運命を共有するつながりを]

Webの容易なつながりで得られる熱を「偽熱」とでも呼びましょうか。石神の知った「熱」は「偽熱」とは大違いなんです。それ故に、花岡親子のために、彼は人生をかけた決断をします。「偽熱」のためにはそこまで出来やしません。

最後のシーン、松雪泰子演じる花岡靖子は、ある決断をします。その決断は、石神の価値観や人生観を大きく引っくり返すものでした。

いうなれば、彼女の「熱」が石神という「雪山」にまるで、春を告げる太陽のように差し込んだわけです。石神の涙は、彼自身のこころの「雪解け」だったのかもしれません。

いわゆるハッピーエンドなのかもしれませんが、それは同時に靖子と石神が運命共同体になり、煩わしさも共有することを選択したということです。

「偽熱」でつながった人々の関係は、運命を共有することはあり得ません。どこまでいっても人々は「孤独」でしかないのです。

願わくば、僕たちにもよく似た、日本中の石神たちに、「熱を持った人間」との縁があらんことを。

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-5.html

2013/07/10 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【京大研志会】日本の思想(第四章)

   ↑  2013/07/06 (土)  カテゴリー: 京大研志会
日本の思想(第四章)-001

日本の思想(第四章)-002

(記事編集) http://buraihamegane.jp/blog-entry-99.html

2013/07/06 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【京大研志会】日本の思想(第三章)

   ↑  2013/07/06 (土)  カテゴリー: 京大研志会
日本の思想(第三章)-001

日本の思想(第三章)-002

日本の思想(第三章)-003

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2013/07/06 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |

【京大研志会】日本の思想(第二章)

   ↑  2013/07/06 (土)  カテゴリー: 京大研志会
日本の思想(第二章)-001

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日本の思想(第二章)-004

日本の思想(第二章)-005

日本の思想(第二章)-006

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2013/07/06 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑↑↑ |